世界遺産登録 おめでとうございます。
あわせて、東北三県の一日も早い復興をお祈りします。
山号・寺号 | 開山中尊寺(大長寿院・金色院・地蔵院を含む) |
所在地 | 岩手県西磐井郡平泉町字衣関 |
起点駅・目安時間 | 東北新幹線一ノ関駅・40分 |
経路・時間 | 一ノ関駅又はJR平泉駅からバス中尊寺前下車 一ノ関駅からが圧倒的に便利 |
国宝建造物 | 1 金色堂 |
国宝仏等 | 1 阿弥陀如来及び両脇侍像はじめ32躯(国宝仏編bP) |
その他の国宝 | 6 螺鈿八角須弥檀等 讃衡蔵内常設展示 |
おすすめ度 | ★★★★ |
月見坂と呼ばれる参道の両側には,樹齢400年を超すヒノキ,杉木立が続き森閑とした寺域をつくる。
ところどころ差し込む木漏れ日をたよりに急なそして長い参道を登っていくと,木立の間から,遠く銀色に輝く北上川が見え隠れする。
そろそろ休憩しようかと思う頃,あたりが少し開け諸堂が目に入るようになる。
中尊寺は850年慈覚大師円仁が平泉の地に開基した弘台寿院を,奥州藤原氏が40を超える堂宇の他,金色堂,経堂などを整えるにおよび,伽藍は一時壮麗を極める。しかし,義経をかくまったことで頼朝の逆鱗に触れ,中尊寺をはじめ平泉の地は徹底的に焼き払われる。
さらに,その後の度重なる火災によりこの寺は烏有に帰すが,奇跡的に金色堂と経堂だけが残り,今にその姿を伝える。
兵(つわもの)どもが夢に見た,地の果て奥州の極楽浄土。
月見坂を登りきると,奥州藤原氏3代の桃源郷,平泉の象徴ともいうべき金色堂は意外な姿をそこに見せる。
建立後千年近く経てもなお,御堂は朽ち果てることを許されない。御堂は重厚なコンクリート製の覆屋(おおいや)の中で光り輝く。
栄華は,うつろいやすいものではなかったのか。荘厳は,やがては一時の迷いから覚醒し,沈静への道を辿るのではなかったか。
奥州藤原氏の刹那の夢が,永遠に近い形で今も残されている。
戦火,兵火を免れ今に伝えられる経堂。
この中に多数の経が収められていて,後に国宝に指定された。
確かに,世界に誇る文化財を荒れるに任せるのは許されない。
「漆塗り金箔押し」の御堂が雨ざらしの末,朽ち果て自然に戻るのを待つことは忍びない。
建立当時はどうであったのだろうか。覆堂(おおいどう)は開闢以来あったのだろうか。
この点,ハッキリしないが,金色堂にも屋根があり,木製の瓦が載せられていたようではあるが,相当傷んでいるところを見ると,建築当初は,これを覆うものは無かったのかもしれない。しかし,御堂をすっぽり包む覆屋による保護は,少なくとも鎌倉時代からは,始まったようだ。
金色堂旧覆堂 昭和の頃までこの中に金色堂があった
藤原氏の栄華が草に還っている。全てのものが自然に戻っていく。
芭蕉は高舘でこう詠んだ後,中尊寺を訪ねたのか。
御堂の変わり果てた姿を想い,月見坂を登る。しかし,芭蕉翁が歌枕に憧れ一ケ月にも及ぶ漂泊の末に観たものは,鞘堂の薄明かりの中に佇むこの絢爛豪華な御堂であった。
表題句は五月雨も光リ堂には畏れおおくて降り注げない,という意味ではないだろう。
自然に戻ることも許されず手厚く保護されていることに戸惑いを覚えながら詠んだのではないか。
同様の思いからだろうか,山頭火も実にあっさりとした句を残している。
昭和25年から実施された金堂の調査の際,堂内の須弥壇から,伝承どおり3体のミイラが発見された。初代清衡,2代基衡,3代秀衡のミイラである。
藤原氏はこの地に壮麗な仏教王国の現出を願って,この中尊寺の寺勢を整えたが,すべてのものが常に変化してとどまることがない,との仏教の教えを知りながら,それに挑むかのように金堂ばかりか自らの身体にも永遠を求めた。
昭和25年の調査の際,泰衡の首桶から採取されたハスの一粒が平成10年に開花している。
経堂の諸仏を拝するのもそこそこに,山を下り始めると,鬱蒼とした深い緑の森の奥から,急に霧が湧き出してきた。あっという間に辺りを包み込んだかと思うと,まるで後を追うかのように下り始めてきた。
金色堂の手前には讃衡蔵があり,中尊寺の沢山の国宝がおしげもなく展示されている。これほどの国宝が一堂に展示されているのは,他には奈良興福寺の国宝館ぐらいであろう。
多数の機関,個人が国宝を所有しているが,それらの国宝公開に対する姿勢には様々なものがある。讃衡蔵の展示には,文化財に対する中尊寺の姿勢が垣間見られ,これに敬意を表したい。
ここに,展示されている国宝の数々を見ると,国宝のおよその水準がある程度理解できる,と思われる。
金色堂内の阿弥陀如来及び両脇侍像はじめとする諸仏(32躯)が2004年6月一括して国宝に指定された。
螺鈿八角須弥檀,中尊寺経蔵堂内具,中尊寺金色堂堂内具,赤糸威鎧,白糸褄取鎧,孔雀文磬の工芸品6件と,書籍・典籍1件・紺紙金字一切経。
中尊寺の下には「毛越寺」(もうつうじ)がある。
藤原氏が中国の洞庭湖をまねて作った浄土式回遊池の跡が残されており,藤原氏の刹那の夢がよく偲ばれるところである。
驚くほどに広い池の廻りをゆっくり回ると,豪華な舟を浮かべ煌びやかな衣裳で着飾った貴族達がいっとき我が世の春を謳歌した姿がおもわれる。
邯鄲の声澄み渡る毛越寺 (秋雨)
毛越寺へは,中尊寺からは国道沿いに歩いて20分くらい。平泉駅からは駅前の道を直進10分ほど。歩いて駅前に戻り,一ノ関駅行きのバスを待つ。その間には,駅前の「芭蕉館」のとろろそばを食べるとよい。
毛越寺は,今でこそ世界遺産登録に手を挙げたりして,手入れが行き届いているが,山頭火が諸国を彷徨していた頃は訪れる人もなく,かつての繁栄を偲ぶのに相応しい寺観が拡がっていたようである。
旅には,文庫本はかかせない。特に辺地の旅では,電車,バスの待ち合わせで思わぬ時間ができてしまう。そんな時,かかせないのが文庫本である。持っていて良かった,との経験は誰しもあるもの。しかし,同じ持参するなら,その地ゆかりの文庫本を持参したいものである。
そこで,このサイトでは,できるだけその社寺に,あるいはその地に適切な本を紹介したいと考えているが,不適切な場合もママある。そんな時は,ご容赦を。
さて,中尊寺に関する文学作品となると,この寺で住職を務めたことのある今東光,晴れてこの寺で得度し尼の道を進んだ瀬戸内寂聴の作品の中に,と思わないでもないが,ここでは,この地で最後を遂げたと伝えられる「義経」関係の文庫作品を取り上げたい。
義経については,根強い判官贔屓からか,この平泉の地で死んではいない,北海道に,あるいはアラスカ,果てはユーラシアまで逃げ延びた,極めつけのものとしては,あの蒙古の英雄チンギスハンになったとの説まである。いわゆる「義経北走(行)伝説」である。
確かに,衣川での自刃には不可解な点が多すぎる。
その最大のものは,義経の首級が夏のさなか40日以上かけて鎌倉に運ばれたことである。その気になれば10日もかからない。何故,腐敗がすすむ暑い季節にモタモタしていたのか。ましてや,当時の奥州は名馬の産地だったのである。
さらには藤原氏の繁栄を支えた豊富な砂金の採取地の問題がある。
砂金採取地は,当然にその上流に金鉱脈を抱えている。かつて東大寺大仏造立の際,金華山から金が産出され,それにより大仏は完成した,との記録はあるようだが,東北地方にはこれといった金の産地はない。となると砂金はどこで採取されたのか。
この点については,現在でも定かではなく,ウラジオストック,あるいは遠くアラスカから運ばれたとの説もある。
例えば,大陸から砂金が運ばれていたとすると,奥州藤原氏の砂金ルートを逆に辿れば義経北走ルートができあがる。
事実,三陸海岸から青森さらには北海道にかけて,義経北走ルートを思わせる伝承が各地に残されている。それらを重ね合わせると,そこに一つの物語ができあがる。
義経北走(行)伝説を題材とした小説には色々あるが,高木彬光「成吉思汗の秘密」(光文社文庫)が入手しやすく史実にも比較的忠実で読みやすい。
歴史ロマンがいやが上にもかき立てられる。
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