名称 | 豊国神社 |
所在地 | 京都市東山区大和大路通正面茶町 |
起点駅・目安時間 | 京都駅・25分 |
経路 | バス三十三間堂前下車徒歩5分 |
国宝建造物 | 1 唐門 |
国宝仏等 | なし |
その他の国宝 | なし |
お薦め度 | ★★★ |
豊国神社は,「とよくにじんじゃ」と読むが,京の人々には「ホウコクさん」と呼ばれ親しまれている。
秀吉を神として,言い換えれば「人」を神として祀る数少ない神社である。
この豊国神社は,豊臣家滅亡後,徳川家により徹底的に破壊され、社頭は消滅し,廃社の憂き目を見るが,明治維新の頃になり反徳川の象徴としてまたぞろ再興されるという風変わりな神社である。
国宝唐門は,西本願寺の唐門(通称日暮の門)とほぼ同様式であるが,神社と同様,数奇な運命を辿っていて,未だにその出自がはっきりしない。
明治の再興の際,この唐門は,南禅寺の塔頭「金地院」から移築されたのだが,それ以前は,もともと豊国神社にあった,あるいは,二条城,否,伏見城の城門であった等,様々に伝えられていた。しかし,現在では,伏見城の城門であったとの説に落ち着いている。
国宝唐門は,桃山時代の雰囲気を色濃く伝える豪華なものであり,その姿を前にすると立ち尽くしてしまいそうな迫力がある。あっけにとられる,と言った方が良いのかも知れない。
日光東照宮,その裏手の輪王寺大猷院もこれを十分に意識して作られており,その後の唐門建築の手本となった遺構である。
国宝唐門 | |
豊国寺の唐門は豪華絢爛の一語に尽きる。
豪華絢爛といえば「桃山時代」のキャッチフレーズであるが,その象徴的な建築物としては,秀吉の遺構となるはずであった聚楽第と伏見城の名が浮かぶ。しかし,それらは現在,跡形もない。
聚楽第は秀吉の意志により廃棄されたが,伏見城は徳川家により徹底的に解体された。
但し,伏見城を解体した際,それらの一部は西本願寺その他に移築されており,そこで往時の姿を偲ぶことができる。
ちなみに,桃山時代とは,秀吉の伏見城が取り壊された跡地に多数の桃の木が植えられ、毎年桃の季節になると全山が桃色に染まることから、桃山と呼ばれるようになり,やがて秀吉好みの豪華絢爛な文化を「桃山時代」,「桃山文化」と呼ぶようになったものである。
この豊国神社の地続きに方広寺がある。
方広寺は,かつて秀吉が諸侯に築造を命じた大仏殿を擁した寺として名が残るが,大仏とともにこの寺も,地震,火災,徳川家による解体等に見舞われて,これまた歴史に翻弄され数奇な運命を辿っている。
現在,大仏殿という巨大建築物の存在を偲ばせるものは何もなく,境内には鐘楼ぐらいしか目に付かないが,僅かに表通りの寺の塀にあたると思われる辺りにその痕跡が残されている。
巨大な石組みの塀がそれである。その石の大きさたるや,町の中では滅多にお目にかかれない大きさで,秀吉の権勢の一端とともに,在りし日の大仏様の巨大さも偲ばれる。
また,この方広寺は豊臣家を滅亡に導いた寺としても有名である。鐘楼に吊された大きな鐘には,「国家安康」「君臣豊楽」の文字が白ペンキの枠で囲まれ,よく分かるようになっている。
鐘の左上白くなったところに「国家安康」「君臣豊楽」の文字が。 | |
通りには巨大な石が組まれている。 |
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