
国宝建造物編55
| 山号・寺号 | 深雪山醍醐寺 |
| 所在地 | 京都市伏見区醍醐伽藍町 |
| 起点駅・目安時間 | 京都駅・50分 |
| 経路 | JR山科駅乗換京阪バス醍醐寺三宝院下車すぐ |
| 国宝建造物 | 6 金堂・五重塔・薬師堂・清滝宮拝殿・三宝院書院と唐門 |
| 国宝仏等 | 1 薬師如来及び両脇侍像(国宝仏編bP1) |
| その他の国宝 | 11 |
| お薦め度 | ★★★ |

醍醐寺は,笠取山(醍醐山)の山上から麓までの広大な寺域を有し,山の上を上醍醐,下を下醍醐と呼ぶ。
バス停を降りるとすぐに下醍醐の境内になる。中央に桜の馬場と呼ばれる広い路が山門までのび,途中,北側(左手)に三宝院,南側(右手)に霊宝館がある。
霊宝館には,国宝薬師如来及び両脇侍像が納められているが,霊宝館は,春と秋各々2月間開かれる。
中世まで隆盛を極めていた醍醐寺であったが,幾多の戦火で伽藍は壊滅する。
それを復興したのが80代座主義演であるが,実は,この義演の義兄から関白職を譲られた秀吉が,そのお返しとばかりに再興を積極的に援助し,この寺の山号まで命名する。深雪山は秀吉のつけた山号。
また,この醍醐寺は,秀吉の「醍醐の花見」が開催された寺としても知られている。もっとも,醍醐寺は,もともと桜の名所であったわけではない。秀吉が,桜の見頃の数ヶ月前に,気まぐれにこの地で花見がしたいと言い出し,その僅か数ヶ月の期間に約700本の桜を移植し,花見の会場にしたと言われている。
その際,花見のために建物も一緒に築造している。現在,醍醐寺にある建物の多くは,その時に造られたものであり,三宝院唐門と表書院の2棟の国宝建造物もその際建てられたものと考えられている。
その秀吉は,花見の宴を催したわずか数ヶ月後の8月に,この世を去ってしまう。死期の近いことを知っての最後の「我が儘」だったのであろうか。
桜の馬場 奥が山門
大きな紋が描かれている。
国宝・三宝院唐門

境内には金堂がある。

上醍醐にいたる参道
この醍醐寺の五重塔の脇道を少し,ではない,かなり登ると,西国33霊場11番札所「上醍醐寺」がある。朱印を求めてか,沢山の人が行き交う。
国宝清滝宮拝殿及び薬師堂はこの上醍醐寺にあるが,そのことは意外と知られていない。醍醐寺だけを訪問して帰らないように注意したい。
とは言っても,軽い気持ちでは鑑賞できない。急峻な山道を40分は登ることになる。決してハイキングではない。山登りである。案内書に40分とあったので,20分くらいか,とタカをくくって登り始めたが,それくらいかかった。確かに,麓のバス停あたりから見ると笠取山はかなり高い。ただ,山道とは言っても整備がされているので比較的歩きやすい。
新緑の頃ともなれば,重なった若葉からしずくが滴り,それが溜まったあたりに蛙がタマゴを産み付けている。蛙の鳴き声を聞きながら登り始めると中頃に不動の滝があらわれる。
一休みしてまた登り始める。20分ほどで,上醍醐につく。
そこには,おへんろさんお目当ての准胝観音堂と国宝薬師堂,同清滝宮拝殿がある。

上醍醐の僧坊が見え始めると,様々なお堂が点在しているのがわかる。ここまで相当の汗をかき喉が渇いているので,お目当ての水を探す。上醍醐を開いた僧があまりのうまさに「醍醐,醍醐」と言いながら飲んだという,あの醍醐の水だ。
それらしいところに向かうとそこには,清水は枯れていて,しかも「この水は飲めません」との注意書きが添えてあった。喉が渇いた諸氏には,近くにウーロン茶等の自販機がある。
醍醐とは,ヨーグルトのような乳酸菌飲料類の中で,一番美味い者もの,の意味。 「醍醐味」とはここからきている。
釈迦が体力回復のために村の娘スジャータから飲ませて貰ったのもこの醍醐なのかも知れない。では,醍醐寺とは,乳酸飲料を製造したりする寺?。無論,そうではない。
「醍醐」は最上の味から転化し,やがて最上の教理を例える言葉となり,醍醐寺の名もこれにちなんだもの。
この僅かばかりの平地の一角に山の斜面を利用した懸崖造りの国宝清滝宮拝殿がある。
懸崖造り
蛙股の意匠が施されている
西国霊場札所の准胝観音堂から五大堂に向かうと,その途中に,石で組まれた基壇の上に古色蒼然たる建物が載せられている。それが国宝薬師堂だ。
壁はきれいに塗り替えられてはいるものの,木部は山上の厳しい風雨に傷みが激しい。しかし,山深い緑の中に自らを溶け込ませ,落ち着いた風合いを醸し出している。
かつてはここに薬師如来及び両脇侍像が祀られていたが,いまでは山下の霊宝館に移されている。
国宝・薬師堂

ところで,秀吉の時代は,「桃山時代」と呼ばれ,その文化の特色は豪華絢爛の一言につきるが,では,その「桃山」とは一体何を意味するのであろうか。
秀吉は,京都・伏見に城を築き,それは伏見城と呼ばれていたのだが,秀吉の死後,その影が残るのを極端に嫌った徳川幕府は,これを徹底的に破壊する。
この解体後の残された城山に桃の木が植えられ,やがてこの辺りは「桃山」と呼ばれるようになり,以後秀吉の豪華絢爛な時代を桃山時代と呼ぶようになったのである。
もっとも,伏見城の解体といっても,さすがに捨てたりはしなかった。各地にすこしずつばらまいて,当時の今でも遺構は随所に残っている。
代表的なそれは,豊国神社や,西本願寺内に移された唐門等であり,いずれも国宝に指定されている。
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