国宝建造物編77| 山号・寺号 | 法隆寺 |
| 所在地 | 生駒郡斑鳩町法隆寺山内 |
| 起点駅・目安時間 | 京都駅・1時間 |
| 経路 | JR関西本線法隆寺駅・徒歩10分 |
| 国宝建造物 | 18 南大門・中門・金堂・五重塔・大講堂・回廊・経蔵・鐘楼 西円堂・三経院及び西室・聖霊院・東室・綱封蔵・食堂 東大門・東院夢殿・東院伝法堂・東院鐘楼・ |
| 国宝仏等 | 17 釈迦如来及び両脇侍像・四天王立像・薬師如来座像・ 観音菩薩立像(百済観音)・ 観音菩薩立像(夢違観音)・ 阿弥陀如来及び両脇侍像・ 観音菩薩立像(救世観音)・ 塔本四面具・薬師如来座像・行信僧都座像・ 観音菩薩立像(九面観音)・地蔵菩薩立像・ 毘沙門天,吉祥天立像・薬師如来及び両脇侍座像・ 聖徳太子,山背王,殖栗王,卒末呂王,恵慈法師座像・ 釈迦如来及び両脇侍像座・道詮律師座像 (国宝仏編bR3) |
| その他の国宝 | 3 玉虫厨子他 (その他の国宝編bS8) |
| お薦め度 | ★★★★★ |

法隆寺駅北口からゆっくり歩き始める。来るたびに景色が変わっている。都市化の波はここ斑鳩の里をも例外扱いをしない。しかし,広い通りを左に折れて松林が見え始めると,そこからは古の斑鳩の里がはじまる。
松林が消えかかる頃,正面には南大門と五重塔が見えるようになる。
聖徳太子建立七大寺の一つ。
夥しい数の国宝に囲まれ,日本初の世界遺産登録を果たす芸術の寺ではあるが,歴史,美術,当時の朝鮮半島や中国大陸事情等,各分野の研究が進むにつれ謎が謎を産み出す興味の尽きない寺でもある。
法隆寺は,金堂,五重塔を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍の二つのエリアから構成されている。そして,西院伽藍はさらに,回廊に囲まれた七堂伽藍を中央に,その東西に西室と東室それぞれを核とした二つのゾーンを従える。
見学は南大門から西院伽藍の中門に至り,そこからスタートするのが一般だ。
まず,西院伽藍の西,中央,東の各ゾーンを巡り,東大門を経て,東院伽藍の中心夢殿付近を廻り,最後に中宮寺を訪問して終わる。
所要時間は半日は確保したい。
法隆寺南大門 反り返った屋根は美しく,それを支える八脚が力強い。この日は元日,国旗が掲揚されていた。

国宝南大門から入り,左右に仁王像が安置される国宝中門に向かう。
この中門は柱間が4間と偶数の珍しい構えとなっていて,そのため,正面に柱が立ちはだかり異様な光景。まるで入り口と出口のようである。
古来から法隆寺の不思議の一つに数えられていて,その理由については色々取りざたされているが,未だ定説はない。
謎の法隆寺の出発点である。
法隆寺中門
回廊に沿って西に向かうと,回廊内の伽藍に入る料金所があるが,ここはひとまずパスして西に向かう。
すぐに国宝三経院が現れる。その前をとおり,横に回り込むと国宝西室が続く。この,三経院と西室は一連の建物であり,前方南七間を三経院,後方北十一間を西室と呼んでいる。両者併せて1件の国宝指定である。
国宝法隆寺三経院
国宝法隆寺西室(にしむろ)
西室の横の石段を上がると丘の上のようなところに出る。屋根に宝珠を載せた国宝西円堂が佇んでいる。
別名「峰の薬師」と呼ばれるこの西円堂は,聖武天皇の妻橘三千代の発願により養老二年に建てられたものと伝えられる。
御堂には国宝・薬師如来坐像が安置されている。
また,ここ西円堂では節分の日に毘沙門天が鬼を追い払う「ついな」の祭りが行われることでも有名だ。
この高台からは五重塔,金堂等の西院伽藍の諸堂や斑鳩の里まで見渡せる。


西円堂から来た道を引き返し,回廊の入口にある料金所をくぐる。法隆寺の中心七堂伽藍である。
東西の回廊は中門と経蔵,鐘楼,大講堂を結び,その中に五重塔や金堂を置く。法隆寺式と呼ばれる伽藍配置である。
西側の回廊は経蔵まで一直線に伸びている。右手は太い柱が並び,左手にはれんじ窓が続く。
西回廊
五重塔,金堂,大講堂,さらには経蔵,鐘楼と国宝建造物が続く。そして,五重塔,金堂,大講堂の中には,あまたの国宝仏も鎮座している。
大講堂
回廊に囲繞された中に金堂と五重塔が配置されている。いずれも古色蒼然として,しかも優美な建物である。その内,金堂は,桁行5間,梁間4間の入母屋造,本瓦葺きの均整のとれた建物である。
金堂内に足を入れ,その暗さに目が慣れてくると,周囲の壁に壁画が施されているのが分かる。今となっては,修復中の失火により焼失してしまった壁画が悔やまれるが,和辻の「古寺巡礼」には,修復前の壁画の様子が詳しく語られている。
また,堀辰雄「大和路・信濃路」(新潮文庫)には,壁画の模写修復作業の記述があるが,そのことからすると,この作業は相当長期行われていたようである。長期になるとどうしても緊張感が薄れるのだろう。皮肉にも保存のための作業が文化財喪失の原因となった。
この金堂は,世界最古の木造建築である。しかし,何時建てられたかは,ハッキリしない。それでも最古は確実のようである。
かつては,建築様式や金堂薬師如来の光背の銘文を根拠に聖徳太子607年の建立にかかると考えられていた。しかし,一方で,日本書紀は,670年に「法隆寺災けり。1屋も余ることなし」として消失を記録する。これはどういうことだろうか。
この金堂は,聖徳太子が建立したと考える立場は,年代の記述誤り,あるいは消失したのは,法隆寺とは無関係の別の寺であるとして,この記述を無視してきた。
しかし,仮にも国史の一つ書紀を信頼しないわけにはいかないとする立場も有力であった。その立場は,伽藍形式から推定される年代等を根拠に金堂は,消失後再建されたものであるとする。
この再建,非再建論争に決着をつけたのは,西院伽藍の南東約150メートル,現在の普門院あたりから発見された伽藍跡であった。この伽藍跡は若草伽藍と名付けられるが,この伽藍の発見により,聖徳太子が建立した法隆寺は当初,607年にここに建てられ,その後,書紀の記述通り670年に消失した,と考えられるようになった。
そして,現在の伽藍は,この焼け跡にではなく,ここら北西約150メートル離れた辺り,すなわち別地に建て替えられたことがほぼ確実となり,この論争に終止符が打たれた。
このことを分かり易くするために法隆寺に関する出来事を時系列的にまとめると次のようになる。
まず,太子が斑鳩の里に宮を建てる。現在の夢殿辺りである。藤原宮から離れているが,難波と都の中継地,交通の要所であるこの地を選び,一族は移り住む。605年頃のことである。
その後,太子は法隆寺(斑鳩寺)をこの斑鳩宮の近くに建てる。それが,現在の東大門辺りにある塔頭普門院付近である。607年頃のことである。
ほどなく太子はこの地に没する。622年である。
政局は安定せず,ついに643年に,太子の子,山背大兄王(やましろのおおえのおうじ)をはじめ,一族はすべて自殺し,あるいは虐殺される。この際,斑鳩宮は全焼する。
追い打ちをかけるように法隆寺は一堂も余すことなく焼失する。670年のこととされる。
焼失後,斑鳩宮辺りも含め「獣のすみか」となるまで付近は荒れ果てる。
やがて,711年までに,今,眼にするのと同じ西院伽藍の堂宇が建ち並ぶ。
さらに,この後,739年に,行信により斑鳩宮跡に夢殿を中心とする東院伽藍が建てられる。
ここまでは,現在のところ,史実として大方承認されている。
しかし,謎は,まさに,ここから始まる。
これまで法隆寺は,漫然と太子が建てた,あるいは遺徳を偲んで建てられた,とされてきた。では,遺徳を偲んだのは誰か,大衆は間違いなく太子の遺徳を偲んだが,大衆の浄財だけでは,このような伽藍は建たない。
焼失前の法隆寺は,太子及び太子一族の財力で,建立されたと,思われる。蘇我氏の後援も期待できた。
では,再建された現在の寺は,誰により建てられたのか。
寺は,一般に豪族の氏寺か,あるいは天皇が仏教政策の一環として建てられる。まれには篤志家の豪族が財力を投げ打つこともある。そうであるとしても名前は出てこない。蘇我氏はすでに衰退の一途をたどっている。
建てたのは,時の,為政者,天皇か?。藤原氏か?。
驚くべき事に,寺としては西院伽藍だけで十分なはずなのに,東院伽藍までが建てられる。これは一体どういうことだろうか。
「法隆寺は,誰が,何時,何のために建てた寺なのか?」
「誰が,何時,何のために建てた寺なのか?」このような問題提議をしたのは西洋哲学者梅原猛である。
これだけの寺を建てるには,相当の財力が必要である。しかし,太子は,いかに慕われ,どれだけ尊敬に値する,と言っていかにせん過去の人である。残された一族が再建するならともかく,太子の子孫は,蘇我入鹿により全員自刃,あるいは虐殺されている。
梅原猛「隠された十字架・法隆寺論」(新潮文庫)は,このように問いかけたあと,大胆な推論から驚くべき結論に到達する。西洋哲学者梅原猛のデビュー作であるが,歴史ミステリーとして十分に楽しめる。実に面白く,大筋において承服できる。
国宝金堂
国宝金堂

鐘楼

柿を食ったら聞こえてきた鐘か?
国宝五重塔
東側回廊
回廊を出て,鏡池をすぎ国宝仏に逢うために宝物殿・大宝蔵院に向かうことになるが,そこに至るまでにも,そこかしこに国宝建物が優美な姿をみせる。
まず,鏡池の前の聖霊院と東室,その横に高床式の綱封蔵がある。
この二つの建物の間に大宝蔵院に向かう通路が設けられてあるが,その細い路を進むとやがて食堂(じきどう)が現れる。これも含め全て国宝である。
百済観音の大宝蔵院はその食堂のすぐ後方だ。
法隆寺聖霊院
東室
綱封蔵
国宝食堂は大宝蔵院の前にある。しかし,よく見ると,そのさらに前にやや小振りの食堂と同様の建物が建っている。「細殿」と呼ばれるこの建物と食堂とが,屋根の二つ並ぶ双堂形式となっている。
食堂・正面7間,側面4間
西院伽藍を出ると東大門(とうだいもん)があり,そこを潜ると夢殿を中心とした東院伽藍の始まりである。
東大門は,東院伽藍の入り口に東西に向かって建てられている。奈良時代の八脚門の典型である。

東院伽藍の中心は何と言っても八角円堂の夢殿である。天平人の技術の高さには敬服する。その横から後にかけて国宝東院鐘楼,国宝東院伝法堂とつづく。

藤原不比等の夫人橘三千代の旧宅を施入したものと伝えられていたが,外観が仏堂であることから,その伝承は誤りとする見解もあったが,昭和の解体の際に住宅が改築されたことが確認された。

平安末期の再築である。袴腰と呼ばれるスカート状の覆いを付けている。この形式の鐘楼では現存最古である。

池の中に高床式の本殿が作られている。昔からこのような建物かは不明であるが,中にはあの国宝・弥勒菩薩が祀られている。
興味深いのは,寺としては代々如意輪観世音菩薩として祀ってきたが,文化財の登録としては弥勒菩薩となっていることである。そんなことにはお構いなく菩薩は永遠のアルカイックスマイルで迎えてくれる。
他に国宝・天寿国曼陀羅繍帳も展示されている。但し,複製品である。
寺院には,本堂、庫裏など様々な目的から色々な建物が築造されているが,それらは伽藍と呼ばれ,この伽藍をどのように配するかは,国により,時代により変遷がある。
かつては,四天王寺式伽藍配置と呼ばれる,中門,塔,金堂,講堂等が一直線に並ぶ方式が一般であった。
これに対し,「法隆寺式」と呼ばれる伽藍配置は,正面に講堂を置き左右に金堂と五重塔を配し,廻りを回廊で囲むというもの。安定感を重視した配置である。 このように法隆寺には国宝建造物が満ちあふれているが,この法隆寺探索の強い味方として,西岡常一「木に学べ」(小学館文庫)をお薦めする。法隆寺の歴史から数々の国宝建造物の解説まで宮大工棟梁の経験と学識がいかんなく発揮されていて,建物の見方が変わること必定。法隆寺,薬師寺探訪必携の書。
斑鳩の里には,万葉の情趣と飛鳥の風情がいたるところに残されている。法隆寺のすぐとなりは、アルカイックスマイルの弥勒菩薩(如意輪観音)がおわす中宮寺,国宝三重塔の法起寺,近時トミに整備が進んだ法輪寺,大和青垣山を借景とする美しい庭園のある慈光院、等々見所は尽きない。
荒廃の美をたたえる寺として亀井勝一郎が絶賛した法輪寺も,幸か不幸か,現在は復興し普通の寺になった。
|
|
||||
| 国宝建造物編 8エリア → |
関東・東北エリア | 東海・北陸エリア | 滋賀エリア | 京都エリア |
| 奈良エリア | 大阪・和歌山・兵庫エリア | 中国地方エリア | 九州・四国エリア | |
| 国宝を訪ねてTop | 国宝建造物編Home | 国宝仏編Home | その他の国宝編Home | 国宝情報Home |
|
|
||||
| copyright. 2002. kokuhoworld .all rights reserved | ||||