国宝仏編№25

国宝を訪ねて

興福寺

興福寺案内

山号・寺号 興福寺
所在地 奈良市登大路町
起点駅・目安時間 新幹線京都駅から1時間
経路 JR・近鉄奈良駅から徒歩
国宝建造物   4(国宝建造物編№63
国宝仏 八部衆立像等 17件55軀1個12面
その他の国宝 5 書跡・工芸品等(その他の国宝編№42
秘仏・公開 公開・ただし北円堂は春と秋に公開

興福寺の国宝仏17件

仏像名 安置場所 備考
仏頭 国宝館 1個
十大弟子立像 6軀
八部衆立像 8軀
板彫十二神将立像 12面
金剛力士立像 2軀
天燈鬼・龍燈鬼立像 2軀
千手観音立像 1軀
法相六祖坐像 6軀
維摩居士坐像 東金堂 1軀
文殊菩薩坐像 1軀
四天王立像 4軀
十二神将立像 12軀
弥勒仏坐像 北円堂 1軀
四天王立像 4軀
無着・世親菩薩立像 2軀
不空羂索観音座像 南円堂 1軀
四天王立像 4軀

興福寺の歴史

 奈良を代表する名刹です。
 藤原鎌足の死後に山階に創建した藤原氏の氏寺山階寺(やましなじ)が,平城遷都とともに現在の地に移り、寺名を興福寺と変えました。
 法相宗の大本山です。

国宝館の諸尊

 まさに国宝館と呼ぶにふさわしい美術館(博物館)です。おそらく,日本で一番充実した美術館ではないでしょうか。こと,仏像,工芸品を対象とする美術館に限れば,この国宝館の右に出るものはない,と言っても良いでしょう。
 この国宝館には,あの女性に大人気の阿修羅像をはじめとして山田寺仏頭や十大弟子立像等が常設展示され,終日,観光客で賑わっています。 

仏頭

 昭和12年の東金堂解体修理の際、本尊薬師如来の台座下から発見されました。
 摂政九条兼実の「玉葉」には、南都焼き討ち後,東金堂の再建は首尾良く進んだが,本尊の製作が思うようにならなかった。それに業を煮やした興福寺の僧達が山田寺(現,桜井市山田)より丈六の薬師三尊像を奪ってきて本尊とした,とあります。その本尊の頭部がこの仏頭と言われています。頭頂部及び首の下全部が欠けています。
 古拙の笑みも消え,次第に童顔になってゆく白鳳時代の彫刻の特徴がよくでています。

丈六仏

 丈六(仏)とは,一丈六尺の仏像のことで,当時の1尺が約18センチであったことから立像の高さが約2メートル88センチ程度のものを言います。坐像の高さが半分の8尺程度の像も,立像を基準に丈六と呼ばれます。
 なお,この高さは教典(儀規)に,仏は常人の背の高さの2倍である,と記されていることからそのように作られるようになったものですが,この計算でいくと当時の常人の背丈は,8(尺)×18センチ=144センチだったことになってしまいます。
 もっとも,丈六とは4メートル50センチ程度である,とする説も有力です。実際,丈六と伝えられる仏像の多くはその程度の高さになっています。しかし,そうなると,逆にその頃の常人の背丈が気になります。少し高すぎるのではないでしょうか?
 いずれにしても尺貫法が統一されてなかった当時としては致し方のなかったことと言えるでしょう。

山田寺のこと

 山田寺は,蘇我馬子の孫,蘇我倉山田石川麻呂の創建にかかる寺です。近時,その一部が発見され,日本最古の木造建築物の遺構とされるようになりました。
 この蘇我倉山田石川麻呂は,異母弟の蘇我日向に「中大兄(なかのおおえ・後の天智天皇)を殺そうとしている」と讒言され,朝廷方に追いつめられてこの山田寺の仏前で自刃します。しかし,その後,無実であることが明らかになり,彼の霊を供養するために塔や仏像が造られました。国宝館の仏頭もその一部です。
 なお,蘇我倉山田石川麻呂の娘は,天智天皇の后でしたが,この事件の後,心痛のあまり亡くなります。
 その后と天智天皇との間には子供がいましたが,その子が後に天武天皇の后となり,やがて天皇になります。持統天皇です。

十大弟子立像

 かつては光明皇后の母橘夫人の菩提を弔うために建立された西金堂に安置されていました。
 将軍万福の作と伝えられる脱活乾漆造の代表作です。表面は,木屎漆(こくそうるし)により,細やかな造形が施されていて,すこぶる写実的です。皆,僧衣をまとって洲浜座の上に立っています。像高は150センチ前後とやや小振りですが、それ故に醸し出される霊感や神秘さが魅力の一つになっていて,国宝館の中では,彼らの前で立ち止まる人が多くいます。
 幾度も火災に見舞われましたが,10軀のうち6軀が興福寺に残され,1軀が民間に,1軀の心木が東京芸大に,それぞれ伝わっています。
 残された6軀のうち舎利弗(しゃりほつ)、目犍連(もくけんれん)の2軀が奈良国立博物館に寄託されそこで展示されています。

十大弟子とは

 十大弟子は釈迦の眷属とされています。その名は,大迦葉,阿那律,富楼那(ふるな),迦旃延(かせんえん),優婆離(うばり),羅睺羅(らごら),舎利弗(しゃりほつ),目犍連(もくけんれん),阿難,須菩提の計十人です。
 法隆寺の塔本四面具の塑像群の中にも見られます。

八部衆立像

 8軀とも現存しますが,8軀のうち五部浄1軀は上半身が伝わるだけです。また,緊那羅(きんなら)は奈良国立博物館に寄託展示中です。
 150センチ前後のこれらの像は,洲浜座と呼ばれる岩の形をした台座の上に立っています。
 八部衆の中でも阿修羅は女性に絶大なる人気があります。
 十大弟子立像とともに734年の製作です。

八部衆

 八部衆とは,法華経比喩品に書かれている「天,竜,夜叉,乾闥婆,阿修羅,迦楼羅,緊那羅(きんなら),摩睺羅迦」の八衆のことですが,ここ国宝館内の八部衆立像は,天には,五部浄が,竜には沙羯羅が,夜叉には鳩槃荼が,摩睺羅迦には畢婆迦羅が,それぞれあてられて少しイレギュラーです。

板彫十二神将立像

 約1メートル四方,厚さ約3センチの檜の板に彫られた肉感あふれるレリーフです。この板彫りがもともと何処にあったかのかは不明ですが12神将は薬師如来及びその信者の守護神であることから,東金堂の薬師如来の台座に貼り付けられていたとも考えられています。
 ところで興福寺にはこの12神将の他にも東金堂に国宝「十二神将立像」があります。薬師如来に二組もの12神将があるのはやや奇異に感ぜられます。どこからか運び込まれたのかも知れません。 
 なお,一部は、奈良国立博物館に寄託されています。

法相六祖坐像

 興福寺と薬師寺を総本山とする法相宗の常騰,玄昉,神叡,玄賓,善珠,行賀の6人の高僧坐像も国宝に指定されています。
 僧の坐像ですが今にも動きだしそうなリアルな写実と法衣の躍動感溢れる誇張された文様は,鎌倉時代様式の先駆けと言えます。康慶の作です。
 なお,6軀のうち,行賀坐像は奈良国立博物館に寄託されています。

金剛力士立像

 金剛力士像といえば,東大寺南大門のそれに代表されるように巨躯が普通ですが,この像は2体とも154センチと小柄です。西金堂内で本尊を護るものとして造られたことが影響していると思われますが,現在は国宝館に祀られています。
 裸形の上半身は筋骨が隆々,血管まで浮き上がっています。写実性と躍動美に対する飽くなき追求という鎌倉彫刻の特徴をよくあらわしています。殊に下半身にまとわりつく衣が体の動きに連れて翻る様は見事というより他はありません。
 なお、上半身と下半身とに分ける腹部辺りで接合するという寄木造りとしては希有な作例となっています。
 名のある仏師の作品であることは間違いありませんが,正確なところは不明で,諸説紛々と言ったところです。

天燈鬼・龍燈鬼立像

 燈籠を持ち仏前を照らす役割を得て喜々としているのは天燈鬼・龍燈鬼の2軀の邪鬼です。邪鬼は通常,持国,広目,増長,多聞の四天王に踏みつけられていますが,ここ興福寺では,その邪鬼が唯一祀られています。現在は,国宝館に展示されていますが,かつては西金堂に他の諸仏とともに篤く祀られていました。
 天燈鬼は,燈籠を肩に載せ高く持ち上げています。龍燈鬼は,頭上に載せています。また,この2仏は,金剛力士像のように阿吽の形で表されています。天燈鬼は口を大きく開け,龍燈鬼は固く結んでいます。色彩も,天燈鬼は朱,龍燈鬼は緑青と対照的に付されていましたが,現在では,ほとんど残っていません。
 運慶の第三子康弁による1215年の造立です。

千手観音立像

 像高は5メートルを超えています。その体躯から観る者を睥睨する感があります。 
 鎌倉時代に再興された食堂の本尊でしたが,現在は国宝館に祀られています。

東金堂の諸尊

  
   
         重文薬師如来のすぐ左が維摩居士坐像

 東金堂は,聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気平癒を祈願して建てられました。
 本尊は,薬師如来です。両脇に日光,月光菩薩が控えています。これら3軀は,重文に指定されていますが,これら3軀を除いた維摩居士坐像他17軀の東金堂内の仏像は,すべて国宝に指定されています。

維摩居士坐像

 本尊薬師如来の左側に置かれています。
 檜の寄木造りで,玉眼が嵌め込まれています。
 彩色も施されていて,顔の皺,うきだした血管等,細部にまで入念に彫り込まれています。墨書銘から定慶の作と分かります。

 維摩居士は,「維摩経」に登場するインドの在家の仏教信者ですが,この教典の中に,維摩居士が衆生の苦悩を背負うのあまり病に伏してしまい,それを気遣った文殊が見舞いに来るが,なんということか二人で法論を交わす,というくだりがあります。
 この2像はその場面を忠実に再現しています。病に伏すものの,しかし,釈迦の弟子たる気概を失わない,維摩居士の意気込みのようなものが感じられます。  

文殊菩薩坐像

 維摩居士坐像と対をなし,本尊の右脇に置かれています。
 頭に経箱,甲の上に袈裟をつけるといった,他の文殊菩薩像には見られない特異な形態をしています。
 維摩居士と比べると相当に若々しい造りとなっていて,病弱な維摩居士と比較するとその違いが上手に表現されています。
 維摩居士と同様,定慶の作と考えられています。

四天王立像

  檜の一材から彫りだしています。首が短く体躯は甲冑がはち切れんばかりの太めの造りとなっていて,平安時代初期の作風が強く出ています。また,ところどころに当時の彩色が残っています。
 興福寺には,3組の国宝四天王像が在ります。それぞれ拝観して違いを比べてみるのも楽しいものです。

十二神将立像

 本尊薬師如来の周囲を囲む薬師如来とその信奉者の守護神です。
 檜の寄木造りで,彩色も施されています。
 これらの像の中の一つ,波夷羅(はいら)の足裏に「建永二年」とあることから1207年頃の製作と考えられています。

北円堂の諸尊

 

北円堂は,藤原不比等供養のために養老五年に建てられた八角円堂ですが,治承の兵火により諸尊ともども焼失し,鎌倉時代になって再建されました。
 再建の際,諸尊も整えられることになり晩年の運慶が大仏師として製作を統括しました。その際,9軀の仏像が造られましたが,現存するのは,弥勒仏坐像と無着・世親菩薩立像だけです。

弥勒仏坐像

 法印運慶一門の晩年の傑作です。
 腕をゆったりと広げ全体として安定感があります。しかし,暗く厳しい表情はこれまでの仏の中ではやや異質です。
 かつては,仏の体内に水晶珠が「心月輪(しんがちりん)」として納められていました。心月輪とは,密教では別の意味が与えられていますが,普通,月のように澄んだ仏の悟りの心,真如の心,菩提心のことです。
 なお,弥勒菩薩は,菩薩像として,装飾品を身につけ煌びやかに造られるのが一般ですが,この弥勒は如来形として造られ,質素な法衣を纏うだけです。そのためか,弥勒仏と呼ばれています。

無着・世親菩薩立像

 無着,世親は,法相宗の始祖と言われるガンダーラ(現パキスタン辺り)の兄弟高僧です。
 二尊とも法印運慶一門の晩年の傑作です。老齢に達した高僧の表情を見事に伝える鎌倉時代の肖像彫刻の白眉です。

四天王立像

 北円堂本尊弥勒仏を取り囲むように四天王立像が安置されています。
 鎌倉時代に修理が行われ,その際の台座裏の墨書銘から,791年頃に大安寺に祀られていた像がその後何らかの事情で北円堂に移入されたものと分かります。
 安定感のある体型や厚みのある肉取り表現等に奈良時代末期から平安時代初期にかけての特徴がみられ,その頃の造像と考えられます。
 両手,両足の動きを抑えることにより,力強さを表現することに成功しています。

南円堂の諸尊

不空羂索観音座像

 南円堂の本尊です。南円堂は治承の兵火により北円堂とともに焼失しましたが,こちらの方が早く再建され,運慶の父康慶が中心となり本尊をはじめとして数体の仏像が造像されました。
 三目八臂と異形の本尊です。背には宝相華唐草文を透かし彫りにした光背を負っています。像高は,この光背まで含めると7メートルにもなります。

四天王立像

 南円堂の本尊不空羂索観音座像とともに康慶が制作したと考えられてきました。たしかに鎌倉彫刻の全盛期の雰囲気が溢れています。忿怒の形相もすざまじく鎌倉時代の写実的傾向が色濃く出ています。日本のルネッサンスのような颯爽とした彫造です。しかし,何時の頃からか,当の康慶が製作した四天王像は中金堂に安置され,この四天王と入れ替わっています。
 今のところ,この四天王像は運慶作とも定慶作とも伝えられています。
 ちなみに中金堂に安置されている康慶作の四天王像は重文ですが,ここ興福寺にはこの南円堂の四天王立像の他に二組の国宝四天王像があり,康慶作の重文のそれを含めると実に4組の四天王立像があることになります。 

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