国宝仏編№29
| 山号・寺号 | 日輪山新薬師寺 |
| 所在地 | 奈良市高畑町福井 |
| 最寄駅・目安時間 | 新幹線京都駅から1時間30分 |
| 経路 | JR・近鉄奈良駅からバスと徒歩 |
| 国宝仏 | 薬師如来坐像等 2件12軀 |
| 国宝建造物 | 1(国宝建造物編№67) |
| その他の国宝 | なし |
| 秘仏・公開 | 公開 |
| 仏像名 | 安置場所 | 備考 |
| 薬師如来坐像 | 本堂 | 1軀 |
| 十二神将立像 | 11軀 |
聖武天皇の眼病回復を願い光明皇后が発願して747年に建立された寺です。しかし,相次ぐ火災等で金堂等を焼失して,かつての食堂を本堂として現在に至っています。
新薬師寺のある高畑あたりは,わずかに天平の情緒が残されているようですが,驚いたことに、この寺の周辺には、藤原広嗣の乱の関係者、藤原広嗣本人をはじめ、僧玄昉、吉備真備らにまつわる様々な遺構が集まり、そのため数々の憶測がされています。
この乱は,藤原広嗣が,藤原氏の勢力挽回のためにその頃政治の中心にいた僧玄昉、吉備真備らを除くべく太宰府で挙兵したもの。
藤原広嗣は、聖武天皇の治世,統治に異を唱えた、いわば政敵ですが,どういう訳か、藤原広嗣、僧玄昉、吉備真備の三者に関連する社、塚(墓)、住居跡等の遺構が、しかも聖武天皇のために建立されたはずの巨大伽藍新薬師寺の境内に集中しているのです。
これが意味するところは、論者によって様々ですが、偶然の一致,とするにはあまりに一致しすぎています。
一つの考えとして次のようなものがあります。
広嗣の祟りとして、僧玄昉の遺体がバラバラとなり降り注いだ七つの地にそれぞれ塚が祀られたが、その辺りに広嗣の怨霊封じのために彼を祀った鏡神社を建立し、さらに広嗣の乱後も陰陽師として勢力を振るった吉備真備の住居を付近に配した。 それだけでは足らず,怨霊封じ込めを確実なものとするために更に新薬師寺を建立した、とするもの。
僧玄昉と彼を寵愛した光明皇后との関係を考えると、まことしやかな説と思われますが,後日の研究に待つことになります。
本堂内部は、その中央に本尊薬師如来1軀を安置し,その廻りを十二神将が取り囲むという極めて特異な配置となっています。
差し出された手の先から,頭,膝まで全体が榧材の一木から丸彫りされています。聖武天皇の眼病平癒を祈願して造られたためでしょうか,目が異様に大く造られています。
ふくよかな体躯からは奈良時代終わり頃の軟弱な作風から離れたことがハッキリ見て取れますが,古風な裳懸座に座っています。
本像の特筆すべき点は,何と言っても全部が丸彫りされているというところでしょうが,当初から彩色の施されない素地仕上げにより,鎬立つ刀の鮮やかな技術がいかんなく発揮されています。
七仏薬師信仰は、薬師に病気平癒を願う際、薬師の数が多いほど願いが叶うと考えられたのか文字通り七つの薬師仏を祀るのですが,仏像として、それらが独立して七体と数えられる作例は,千葉・松虫寺、滋賀・鶏足寺等のそれが知られるぐらいです。多くは、薬師如来の光背に六仏あるいは七仏の化仏を配置するものとなっています。
新薬師寺の薬師如来も宝相華の葉をかたどった光背に六仏が配されています。
天平時代製作の十二神将立像が本尊を取り囲み護ります。すざましいばかりの忿怒の形相には感動すること請け合いです。しかし,12軀のうち宮毘羅大将1軀は昭和年代の後補であり,国宝には指定されていません。
また,婆娑羅(バサラ)は,500円切手の絵柄に採用されているお馴染みの顔です。
ここは,やはり何と言っても十二神将のうち1軀が昭和の後補という点に注目すべきでしょう。すなわち,後補であるが故に国宝に指定されていない宮毘羅大将を12軀の中から探し出すことができるかにより,仏像に対する審美眼,というか骨董に対する「目利き」か否かが試されると思います。
具体的には,十二神将の名札を見ずにその周りぐるぐる周り,宮毘羅大将1軀を見いだすことです。見つかれば,賞品こそでませんが,大したものです。
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