国宝仏編№33

国宝を訪ねて

法隆寺

法隆寺案内

山号・寺号 法隆寺
所在地 生駒郡斑鳩町法隆寺山内
起点駅・目安時間 新幹線京都駅から1時間10分
経路 JR・奈良線奈良駅乗換、関西本線法隆寺駅下車・徒歩15分
国宝建造物  18(国宝建造物編№77) 
国宝仏 観音菩薩立像等 17件107軀
その他の国宝 3 工芸品・玉虫厨子 (その他の国宝編№48
秘仏・公開 一般公開・但し夢殿は,春(4月11日~5月18日)と秋(10月22日~11月22日)の間に定期公開
 また,聖霊院の聖徳太子座像他4坐像は3月22日から24日までの間,上御堂の釈迦如来及び両脇侍坐像は11月1日から3日までの3日間のみ開扉

法隆寺の国宝仏17件

仏像名 安置場所 備考
釈迦如来及び両脇侍像 金堂 3軀
四天王立像 4軀
薬師如来座像 1軀
毘沙門天,吉祥天立像 2軀
観音菩薩立像(百済観音) 大宝蔵殿 1軀
観音菩薩立像(夢違観音) 1軀
阿弥陀如来及び両脇侍像等 3軀1基
観音菩薩立像(九面観音) 1軀
地蔵菩薩立像 1軀
塔本四面具 五重塔 78軀
薬師如来座像 西円堂 1軀
観音菩薩立像(救世観音) 夢殿 1軀
行信僧都座像 1軀
道詮律師座像 1軀
薬師如来及び両脇侍座像 大講堂 3軀
聖徳太子,山背王,殖栗王,卒末呂王,恵慈法師座像 聖霊院 5軀・秘仏
釈迦如来及び両脇侍坐像 上御堂 3軀・秘仏

法隆寺の歴史

 聖徳太子が発願,建立した南都七大寺の中で一番の古刹です。また,世界最古の木造建築物として世界遺産にも登録されています。
 この法隆寺には,沢山の伽藍があり,夥しい数の仏達が祀られています。国宝仏も沢山あります。
 安置場所別にみていくこととします。まず,金堂です。

金堂内の諸尊

 西院伽藍のほぼ真ん中あたりに五重塔と金堂があり,それを回廊が囲んでいます。中門からは正面に大講堂,左手に五重塔,そして右手に金堂が見えます。法隆寺式と呼ばれる伽藍配置です。
 ところで日本において寺が造営されるようになったのは飛鳥時代に入ってからのことです。その最初が,崇仏,排仏の争いに決着をつけた蘇我氏による飛鳥寺の造立ですが,その日本で最初の本格寺院と考えられる飛鳥寺も今はありません。
 次に,聖徳太子が,四天王寺と法隆寺を創建します。その頃寺を造るにあたっては,中国大陸,朝鮮半島の寺院を真似て,その中心を塔と金堂におきました。そして塔には釈迦の遺骨である舎利を,金堂には仏を,それぞれ祀りました。金堂に祀るための仏像もその頃から造られるようになりました。日本における仏像制作の始まりです。

仏像の制作年代

 そうであるならば,日本で,最古の寺の金堂に祀られている仏達は,日本で最初に造られた仏の可能性があります。
 「古い時代に建てられた寺に祀られている仏は,古い時代に造られた可能性がある」。これは至極当然のことのようですが,実はとても重要なことを意味します。
 なぜなら,古い時代の建造物や仏像はその多くが何時,誰により造られたかがハッキリしません。制作年等が記録上明らかな建物や仏像は意外と少ないのです。仏像に制作者が自分の名前を書いたりするのは時代が大分下がってからのことです。
 そこで何らかの理由で建物の建築年代が分かれば,祀られている仏像のおよその制作年代が,逆に何らかの理由で仏像のおよその制作年代が分かれば,建物の建造年代が,それぞれ分かる可能性があるからです。世界最古の木造建築法隆寺がいつ建てられたか、その正確な年については争いがあり、その論争とリンクするように仏像の制作年代も争われています。

日本最古の仏像・飛鳥大仏

 そんな法隆寺の仏像が日本最古かと思うと、実はそうではないのです。飛鳥寺で造られたとされる丈六仏が記録にあらわれる日本で最古に造られた仏像です。
 現在飛鳥の安居院に祀られている仏像がそれであると考えられていますが、傷みが進んでいて,顔と手の一部以外は後世の補修によるものです。

釈迦如来及び両脇侍像(釈迦三尊像)

 飛鳥時代を代表する仏像国宝釈迦三尊像は,金堂中間に置かれています。
 薄暗い堂内に次第に目が慣れていくと,そこに,がっしりとした鼻と大振りの肉髻をもった仏様が見えてきます。
 かすかに入る陽の光の中でこれまで何を見つめ,これから何を見つめようとしているのか,黙したまま部屋の中央に座しています。
  杏仁形の眼とそこから湧き出るようなアーカイックスマイルと称される微笑みは,あまりにも有名です。
 しかし,その眼差しは,微笑んでいるとも悲しんでいるとも,どちらとも見えます。そのことが拝観する者をしばし仏の世界に引き込みます。
 
 本尊は,宣字座と呼ばれる箱形の台座に座しています。着衣の裾はゆったりと足全体から台座までをスッポリ覆っています。裳懸座(もかけざ)と呼ばれるこの座り方は遠くから観るとまるで,宙に浮いているようにも見えます。裾は雲のように大きな曲線を描いています。
 
 両腕の肘辺りは横腹につけられ腕先を前に出しています。そして左右の掌を前に向け,そのうち左手は指先を下に,右手は上に,それぞれ向けています。与願印と施無畏印です。
 与願印は,宝珠や甘露水を流し衆生に施しを与えます。施無畏印は,衆生に安らかな気持ちを与えます。
 なお,飛鳥時代の仏像に見られる与願印は,特に刀剣印とも呼ばれ,与願印の左手5指のうち,親指,薬指,小指を軽く内側に曲げています。

 釈迦如来は,両脇に文殊菩薩と普賢菩薩を従えるのが通例です。しかし,この釈迦は薬王と薬上菩薩を従えています。 
 この三尊の背後を大きな光背がおおっています。このような構成,配列形式を「一光三尊形式」と呼びます。
 また、この光背には七仏が刻み込まれています。
 
 日本の仏像の中で,最も著名なものの一つであるこの像は,聖徳太子とその妃の菩提を弔うため623年に止利仏師により造られました。光背に刻まれた銘文から制作年の手がかりがつかめる珍しい例です。
 当代の代表作の一つと言えるこの像は,中国の北魏後期の彫刻様式に忠実な点とこの造像記の存在が特筆すべき点と言えるでしょう。 

薬師如来座像

 金堂には全部で3体の如来が安置されています。釈迦三尊像を真ん中に,向かって右に薬師如来が,左には阿弥陀如来が,それぞれ置かれています。
 この右側に控える薬師如来坐像は,本尊の釈迦如来及び両脇侍像に酷似していて明らかに中国北魏,竜門の石窟の諸像の影響がみてとれます。そして,その釈迦如来及び両脇侍像に丸みと柔和さが加わり,技術的にもより高度で洗練されたものになってきています。そのことから、本尊より後の造仏と考えられますが、光背には推古天皇と聖徳太子により607年に造られたと書かれています。そうであれば釈迦三尊像より早く造像されたことになってしまい,他の多くの法隆寺に関する謎とともに議論を呼んでいます。
 造像記や資材帳の記述どおりだとすれば,日本最古の仏の可能性がありますが,どうでしょうか。

四天王立像

 光背の裏面に山口大口費(やまぐちおおぐちあたい)と書かれていることから,日本書紀の山口直大口と同一人物と考えられ,その記述から650年前後の制作とされ,現存する日本最古の四天王像と言われています。
 四天王と言えば,天部を代表する仏ですが,その特徴として忿怒の形相があげられるのが一般です。しかし,それは後代になってからのことで,これらの四像は眉間に皺を寄せる程度です。また,杏仁形の目と古式の唇もハッキリ観られ,飛鳥時代を代表する忿怒の像と言えます。

毘沙門天,吉祥天立像

 本尊に向かって右に毘沙門天,左に吉祥天が置かれています。毘沙門天は,今のも襲いかからんばかりの忿怒の形相が定番ですが,この像に躍動感はあまりありません。全体として落ち着いた雰囲気の像となっています。
 平安時代に盛んとなった和様が色濃く出ています。

五重塔

 西院伽藍の回廊内には五重塔と金堂があります。その五重塔初層内部には,東南西北の四面に様々な塑像が納められています。
 塔に対しては周囲の風景にとけこんでいる塔そのものの美しさにばかり目がいきがちですが,ここでは,内部について,しっかりとチェックする必要があります。

塔本四面具

東面・維摩詰像土(ゆいまきつぞうど)

 東面には,維摩詰像土と呼ばれる塑造群が置かれています。
 維摩詰とは,在俗の信者の名ですが,その維摩詰が,ある時病気になります。それを文殊菩薩が見舞いに訪れます,事もあろうにその見舞いの場で維摩詰と文殊菩薩とが法論を戦わせることになり,その一部始終を釈迦の弟子達が聞き入ることになります。
 ここ東面ではそのような情景が塑像により巧みに再現されています。
 東面では,維摩居士坐像等14軀が国宝に指定されています。

北面・涅槃像土

 北面には,涅槃像土と呼ばれる塑像群が置かれています。
 釈迦が沙羅双樹の下で弟子達に見守られながら入滅した様が表現されています。釈迦の周りを菩薩や八部衆,動物たちが取り囲みます。
 この内で八部衆の様々な悲しみの表情が観る者の目を引きます。この時代に,すでにデフォルメの技法が習得されているばかりでなく,その完成度の高さに驚かされます。
 北面では前面に置かれている比丘像2軀を除いた,32軀が国宝に指定されています。

西面・分舎利仏土

 西面には,分舎利仏土と呼ばれる塑像群が置かれています。分舎利とは釈迦の骨を分け合うことですが,釈迦の入滅後,その遺骨を手に入れたいと願う8つの国の王達の間で争いが起こり,その様があらわされています。
 西面では29軀が国宝に指定されています。

南面・弥勒仏像土

 南面は弥勒仏像土です。
 釈迦の入滅後,56億7千万年後に,弥勒がこの世に現れて衆生を悟りに導き成仏する,という弥勒仏の浄土が現されています。
 この56億7千万年後までに,何とかしてこの世に生き返り,弥勒とともに浄土に赴きたい,と願うのが弥勒信仰ですが,ここでは椅子に腰をかけた弥勒の姿,倚像(いぞう)が造られ最上段に安置されています。
 ここ南面では諸像の傷みが激しく,国宝にはこの弥勒如来倚像1軀が指定されているだけです。

大宝蔵殿の諸尊

 法隆寺の宝物館「大宝蔵殿」には沢山の工芸品や仏像等が整然と陳列されています。その中で国宝仏としては,観音菩薩像3件3軀をはじめとして全部で5件が展示されています。
 中でも,ひときわ眼を引くのは百済観音像と伝橘夫人稔侍仏です。

百済観音像

 樟材が用いられています。両腕は別材で補われています。
 なによりも目と口元から醸し出される何かを語りかけんとする表情が神秘的です。
 金堂の釈迦三尊像や阿弥陀如来坐像の止利派の作品とは雰囲気が全く異なります。百済伝来のあるいは百済人の作品であると考えられてきたところから,それが名前の由来になっています。
 すらりとした細身の,男性とも女性ともどちらとも見られるこの観音様,誰をモデルに造られたのでしょうか,様々な憶測がなされています。
 しかし,聖徳太子の等身大像とされる救世観音よりさらに像高が高いことからすると,そもそもモデルがいたか疑問ですが,この点に正面から挑んだ最近の本に倉西裕子「国宝・百済観音は誰なのか?」(小学館)があります。
 竹取物語から仏教伝来の歴史事情,さらには百済観音が造られた諸事情,背景などから大胆な推論をし,その結果かなり変わった結論に至っています。興味のある方は図書館で本を借りでください。

伝橘夫人稔侍仏(阿弥陀如来及び両脇侍像等)

 橘夫人が日常礼拝していたと伝えられる3体の銅製仏像です。
 3メートル近い厨子の中に像高わずか30センチほどの阿弥陀如来及び両脇侍像が納められています。厨子の中には蓮池(宝池)が造られそこから3本のハスの茎がのび花開いたその上に三尊が置かれています。そして,その背後には天人のレリーフがある屏風が立てられています。また,厨子の扉は四方に造られそれには菩薩,四天王,金剛力士などが描かれています。

玉虫厨子との比較

 この伝橘夫人稔侍仏は,厨子を含めて一具として国宝に指定されています。そして,この厨子は,あの玉虫厨子とともに法隆寺にある日本の厨子遺品の双璧をなすと言われています。しかし、同じ厨子ですが,様々な違いがあります。
 玉虫厨子は飛鳥時代に造られたのに対し,こちらは奈良時代です。説法をする釈迦の端厳さに対し,こちらは表情は穏和で華やかな雰囲気すらでています。そのため,前者には端正で荘厳,そして厳めしい雰囲気がありますが,こちらはゆったりとして,豊かで伸びやかです。  

橘夫人のこと

 橘夫人とは,光明皇后のお母さんです。

観音菩薩立像(夢違観音)

 悪い夢を良い夢に変えてくれる観音様と言われる像高87センチの像です。名前は,「ゆめちがえかんのん」です。
 白鳳時代のに造られたのは間違いありませんが,童子のようにあどけない肉付きの良い体躯はその後に隆盛を迎える天平彫刻の特徴を先取りしたものと言えます。随所に写実性がみられます。
 なお,この像は蝋型鋳造法により造られています。 

蝋型鋳造法

 蝋型鋳造法とは,まず、土を芯として仏像の形を作り蜜蝋でそれを覆います。その後,砂でそれを覆うように形を作り乾燥させます。しばらくして熱を加え中の蝋を溶かします。それにより出来た隙間に溶銅を流し込み、粘土部分を取り壊しなかの銅部分を取り出します。

観音菩薩立像(九面観音)

 頭に八つの顔を載せていることからこのように呼ばれています。十一面観音には馴染みがありますが,九面観音は,この像だけです。もっとも,十一面観音と呼ばれていても十二面ある観音も多いのも事実です。
 標準的な,十一面観音は,本来の顔の本面の他に頭上に十面の顔が置かれています。その頭上の十面の内訳は,正面に菩薩面二面,左に瞋怒面三面,右に狗牙上出面三面,後に暴悪大笑面一面と頂上面(仏面)一面の計十面です。
 十二面ある観音は,本面を一と数えずに,頭上の面だけを数えるのが普通です。頭上正面の菩薩面を三面とすると,本面と合わせて十二面観音になります。結局,十一面か十二面かは,頭上正面の菩薩面が,二面か,三面かによることになります。
 ところが,この九面観音は,頭上正面の菩薩面二面,左右の瞋怒面,狗牙上出面がそれぞれ二面となっていて,暴悪大笑面一面,頂上面一面に本面を入れて九面となっています。
 白檀製のしかも一木造です。古来の精緻な技術がいかんなく発揮されています。

地蔵菩薩立像

 ここ大宝蔵殿には国宝地蔵菩薩立像も安置されています。
 地蔵が盛んに信仰されるようになるのは,平安時代後期からですので,地蔵様に余り古い時代のものはありません。
 そのためでしょうか長い間,国宝に指定された地蔵菩薩はこの一体だけでした。しかし,現在は中尊寺(国宝仏編№1)の地蔵菩薩18軀が国宝に指定され,一気にその数を増やしました。

地蔵信仰

 もっともこの地蔵菩薩については,果たして地蔵なのか,疑問が出されています。それというのも,この像の制作年代は平安時代初期と考えられるところ,地蔵信仰が盛んになるのは平安後期から鎌倉期にかけてであることから整合性を欠くとする人がいるのです。
 また,多くの地蔵菩薩は,右手に錫杖という定番の杖を持っていますが、この像は左手に宝珠を載せ,右手は垂下し印相を結ぶという珍しい形をとっています。
 さらに,その出自にも疑問があると言うのです。
 この像,実は,当初より法隆寺に祀られていたのではなく,大神神社の神宮寺大御輪寺の所蔵であったものが,廃仏毀釈のさい法隆寺に移されてきたものなのです。そのため,僧形の神像ではないか,と考える立場もあります。しかし,どう見ても地蔵様に見えるのですが,どうでしょう?。

夢殿の諸尊

観音菩薩立像(救世観音)

 夢殿には,全部で3体の国宝仏が安置されています。観音菩薩立像(救世観音)
 と行信僧都座像と道詮律師座像です。
 夢殿の本尊は,その内の1軀救世観音(ぐぜかんのん)です。
 救世観音は、行信僧都が夢殿を建立した際にその本尊として安置されましたが,その後,長い間、その経緯は不明ですが、秘仏とされ寺に伝えられてきました。
 明治時代にフェノロサと岡倉天心が法隆寺の文化財調査の際初めてその封印を解きましたが,今日,この像を拝することが出来るのは,彼らの熱心な調査活動に負うところが大きいのです。
 樟材が用いられた胡粉地,箔押しの像になっていて,宝冠の瑠璃玉や光背の透かし彫りなど豪華でしかも細部に至るまで入念に刻み込まれています。普段は秘仏として厨子の扉は閉ざされていますが、春と秋の一定期間公開されます。

道詮律師座像

 本尊救世観音の両脇には向かって右奥に信僧都座像が,左奥には道詮律師座像が,それぞれ安置されています。
 夢殿正面の階段を上り薄暗い堂内を覗き込むと道詮の座る姿が浮かび上がってきます。道詮は平安時代に荒廃していた東院を再興した僧です。
 
 山背大兄王が没した後は、夢殿を中心とする法隆寺東院伽藍は荒廃が進行するばかりでしたが,それでも行信により一時再興されました。しかし,その後再び荒廃し,それを再度,再興したのが道詮です。
 
 遅遅として進まぬ伽藍の再興、その苛立つ感情を押し込めたような像が安置されています。
 本像は塑像です。そのため衣文のゆったりとした自然に流れる様子と晩年の道詮律師の風格溢れる容貌が巧みに表現されていますが、体躯全体は変化に乏しいものとなっています。塑像が流行したのは奈良時代ですが、この像はそれから100年ほど経過した頃に当時の技法を再現するかのように制作されました。当時の復古調あるいは古典的な技法の意図的な採用だったのかも知れません。 

行信僧都座像

  行信は,東院伽藍わけても夢殿再興に功績があった僧ですが、晩年は下野薬師寺に流されなどして不遇でした。しかし、遠流にはそれなりの理由があったと思われますが、詳しいことは不明です。
 盛り上がる肩や胸の膨らみ,さらには膝の厚さにまで写実性に富み,するどい眼光にはドキリとさせられます。己の決めたことを実現するためには何事にも屈しないといった意志の強さが表情に顕れています。
 全体としては、衣文も流れるように造られて繊維の柔らかさが十分に伝わってきます。木製の如意棒を手にした坐像で,像高は約90センチと等身大です。
 肖像彫刻の最古の作品であるとともに鑑真和上坐像とともに天平肖像彫刻の双璧です。 

その他の堂塔の諸尊

 法隆寺にはこの他に,西円堂,講堂,聖霊院,上御堂(かみのみどう)に国宝仏が祀られています。

薬師如来坐像

 西円堂の本尊は、「峯の薬師」との異名がある如来座像です。八角形の西円堂に相応しく八角形の蓮華台の上に結跏趺坐をしてしています。
 丈六のこの坐像は,光背に七仏薬師を配するとともに,その周囲には千仏が彫られています。しかし,この光背は弘安年間の後補と考えられています。
 
 丈六とは1丈6尺のことでおよそ4メーター88センチです。これは立像の基本的な大きさですが坐像の場合その半分の8尺程度で造られます。立つと1丈6尺になることから8尺の坐像ではなく「丈六の坐像」と呼びます。実際の像高は計ったようにピッタシ半分の244センチメートルです。

 大きく見開かれた目と丸みをおびた量感のある体躯が特徴で伸びやかな趣があります。
 脱活乾漆技法により造られていますが,唐招提寺の盧舎那仏とともに奈良時代の脱活乾漆造の双璧と言われています。

薬師如来及び両脇侍坐像

 
        遷都1400年イベントに備え修復中の講堂内

 講堂には薬師如来及び両脇侍坐像が祀られています。ここ講堂の本尊です。 この講堂は平安時代に山城普寺から移築されたと伝えられますが,これらの像もその際に造られたものと考えられています。寄木造りですが,定朝様式が完成,定着する以前の正歴年代の作風が明らかです。。

聖徳太子,山背王,殖栗王,卒末呂王,恵慈法師座像

 

 聖霊院の厨子内には聖徳太子と4人の侍者の坐像がおさめられています。45歳の太子を中心に右に異母弟の卒末呂王(そまろおう),太子の師恵慈法師が,左に息子山背王(やましろおう),異母弟の殖栗王(へぐりおう)が祀られています。教典の講義をする太子は少し口を開きぎみですが,そのの表情には厳しいモノがあります。しかし,他の4像はそれぞれリラックスした表情で,ユーモラスですらあります。
 なお,厨子は毎年3月22日から24日までの間開扉されます。

釈迦如来及び両脇侍坐像


上御堂は講堂の裏手にある

上御堂(かみのみどう)の本尊は、寄木造りであることや目鼻立ちの穏やかさ等から平安中期と考えられますが,三尊とも古式豊かな裳懸宣字座(もかけせんじざ)の上に座っています。ことに中尊のそれはどっしりとして安定感があります。そのため像も全体にどっしりとした感じになっています。
毎年11月1日から3日までの3日間のみ開扉されています。

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