国宝仏編№41

国宝を訪ねて

道明寺

 啼けばこそ 別れもうけれ 鶏の音の
         鳴からむ里の 暁もかな

菅原道真

  

道明寺案内

山号 道明寺
所在地 藤井寺市道明寺
起点駅・目安時間 新幹線新大阪駅から1時間15分
経路 地下鉄御堂筋線天王寺乗換・大阪阿部野橋から近鉄南大阪線道明寺駅下車・徒歩7分
国宝建造物   なし
国宝仏 十一面観音立像 1件1軀
その他の国宝 なし・但し,隣接の道明寺天満宮宝物館に国宝工芸品1件「伝菅公遺品」がある。
秘仏・公開 毎月18日、25日公開

道明寺の国宝仏1件

仏像名 安置場所 備考
十一面観音立像 本堂 1軀

 快速電車の停まる藤井寺駅から普通電車に乗換え5分ほど揺られていると,一気に郊外に出ます。民家もめっきり減り商店もほとんどない。道明寺駅はそんな環境の中の駅です。この駅を降りて真っ直ぐ南に5分ほど歩くと道明寺天満宮の鳥居が見えてきます。ここに立ち寄りそれからお隣の道明寺へ,と進みたいところですが,そのためにはまた鳥居まで戻るしかありません。特に用事がないなら,ここは立ち寄らなくても後悔することはありません。
 もっとも梅の季節には,宝物館で国宝伝菅公遺品が公開されていますので、その時は参拝すると良いでしょう。
 天満宮の入口の前を過ぎ少し先に行くと道明寺の参道と山門にでます。

道明寺の歴史

 この寺の歴史は、聖徳太子が,地元の豪族土師氏(はじし)から土地の寄進を受け,そこに尼寺の土師寺を建立したことから始まります。その後,寺名が道明寺と改称され現在に至ったものです。
 この土師氏は菅原道真の祖にあたり,道真も幼少の頃,しばしばこの寺を訪れています。 

十一面観音立像

   

 拝観料500円を払い本堂に登ると、「もっと前にお進みいただいて結構ですよ」との声に促されて厚かましくも本尊の前に進み出ます。手の届く位置に木目も鮮やかな観音様が立っています。触れてみたい衝動をやっとのことで押さえジロジロ観てしまいます。11面を有する荘厳な観音立像です。
 光線の加減か黒光りしているように見せますが,お隣の藤井寺とは大いに異なり衣紋から指先まで至近距離でハッキリ拝むことが出来ます。端正で気品に溢れた姿に敬虔な気持が徐々に涌きだしてきます。
 両手を合わせ長い時間真剣に見つめている人が沢山います。きっと、様々な思い,願いを伝えていることでしょう。それに引き換えこちらはと言えば,不謹慎とは思いつつもマイクロスコープを取り出し,じろじろ見てしまっています。滑らかな木肌に精巧に掘り出された衣紋から観音の木肌(人肌?)が透けて見えそうなほどです。

道真のお手製

 この十一面観音立像は、道明寺の本尊ですが、寺伝によれば道真,自刻の像とされています。まさか、とは思いますが、その点はともかく、瓔珞から化仏にいたるまで榧(かや)の一木から彫り上げられたとても精巧な像です。
 金箔や彩色を用いない素地仕上げ(きじしあげ)のいわゆる檀造と呼ばれる製法です。
 平安時代中期の傑作とされていますが,中国的な風貌を備えるその作風から唐よりの請来仏である,との見解もあります。 

すぐ近くに 国宝・伝菅公遺品

 この道明寺の近くに,というか隣に先に述べた道明寺天満宮があります。
 そこには,道明寺天満宮宝物館があり道真公の遺品,愛用の装身具等1件6点の国宝(工芸品)を所蔵,展示しています。
 ただし、宝物館の開館日は冬期、梅の開花期となっているので事前確認が必要です。これまでは、正月3ヶ日、1月から3月までの毎25日、梅の開花期の土日祝日に公開されていました。

歌人・書家 道真 

 表題歌は,道真が太宰府に下るとき伯母覚寿を土師ノ里道明寺に訪ねた時詠んだ歌です。一番鶏が鳴く朝になった、それは気の進まない旅立ちの朝だ、といった意味でしょうか。この伯母との別離のくだりは,歌舞伎「菅原伝授手習鑑」にも取り上げられています。しかし、そこでは、道真を亡き者にしようとする時平一派が、道真をおびき出そうと一番鶏を早く鳴かせますが、その計略に気づいた道真は密かに裏門から道明寺を脱出する、といった話として登場します。

菅原伝授手習鑑あらすじ

 菅原伝授手習鑑は、菅原道真の娘の駆け落ちと道真流罪の話を軸に菅原家に仕える家来筋の家に生まれた松王丸、桜王丸、梅王丸三兄弟の人情物語です。
 病の帝は,病床から書家としても名を成していた道真に書の奥義を後世に伝授せよとの勅命を下します。道真は熟慮の末,勘当した旧臣武部に伝えることにしますが、その頃,帝の弟は桜王丸の手引きにより道真の娘と駆け落ちしてしまいます。道真と対立する藤原時平は、その事件を巧みに利用して,娘の駆け落ちは道真の陰謀であるとの讒言をします。それにより道真は太宰府に流されることになりますが、太宰府への途中道明寺に伯母覚寿を訪ね、そこにかくまわれていた娘との別れを惜しみつつ,太宰府に旅立ちます。
 所は変わり、三兄弟の父親の祝いの席に揃った面々は,ささいなことから喧嘩を始めます。父は,時平の舎人となっていた松王丸を勘当します。そして、桜王丸は,道真の流罪の原因を作ったことを悔やみ自害してしまいます。
 一方、時平は追及の手を休めません。書道塾を営む武部の下に匿われていた道真の長子の首を差し出すようにと松王丸を使いに出します。恩ある菅原家に対してそのようなことはできないと松王丸は,事もあろうに我が子の首を道真の長子の首として時平に差し出します。
 やがて,時平の陰謀が露見し,道真は雷神となり時平を滅ぼし,道真の長子はお家再興を赦されることになります。

近くに 応神天皇陵 

 この道明寺を出て少し南に下ると大きな杜が見えてきます。実在がほぼ確実視される最古の天皇15代応神天皇の陵です。
 応神天皇は,仲哀天皇と神功皇后との間の子で皇后の三韓征伐の帰途福岡で産まれたとされます。この天皇の母親が神宮皇后であることは争われませんが、父親については,諸説があり,それが王朝交替説の論拠の一つになっています。

三王朝交替説

 この説は、戦後間もなく水野祐が唱えた学説です。三朝、すなわち古王朝(三輪王朝,イリ王朝,崇神王朝),中王朝(河内王朝,ワケ王朝,応神王朝),新王朝(近江王朝,継体王朝)の三つの独立した異なる部族の王朝が日本を順次支配したとし,神武を始祖とする万世一系を正面から否定します。
 ちなみに現在の天皇家は,最後の新王朝の末裔ということになります。

古市古墳群

 河内王朝説とは,応神天皇を始祖とする王朝が河内を中心に日本を支配したとする学説です。
 その根拠として,1天皇の宮が河内にあったとの記紀の記述,2宋書に倭の5王に関する記述があり,その年代等から,応神等の天皇に比定出来る、3それを裏付けるかのように河内には,ここ古市古墳群の応神天皇陵,仲哀天皇陵,仲姫命陵等巨大な陵が多く存在するとともに,近くの百舌鳥古墳群にも,仁徳陵をはじめとして大きな古墳が点在する、といった点をあげています。
 これらのことから,この地に王朝が存在したことは確実と思われますが、それが前の王朝から血脈,祭祀等が連綿と受け継がれたか否かは別の問題です。
 
 実在が確実視される応神の出自は依然として明らかではありませんが、応神を仲哀天皇の子供とする日本書記の記述は,万世一系を貫きたい同書の捏造であるとする立場が多いのです。
 応神の即位年や没年の不自然さは,このことを物語ります。また、神功皇后の懐妊を押しての三韓征伐も物語めいていますし,竹内宿禰の長命も気に掛かるところです。
 三輪王朝を滅ぼした河内の豪族が大和の新たな支配者となった,とするのが合理的と思われます。

比較的近くに 葛井寺

 この道明寺は葛井寺(国宝仏編№42)とセットで廻ると良いでしょう。
 となると,二つの寺の国宝仏を拝観できるのは,毎月18日だけになります。 

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