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国宝を心ゆくまで鑑賞する方法の一つとして,それらが造られたその頃を思い描きながら鑑賞する,という方法があります。
そこで,建造物建立当時や仏像の造られた時代背景を思い描く助けとして,日本の宗教という視点から,それらの時代をおさらいしてみました。
ご存じのことばかり,あるいは,「それはおかしい」,と感じられる部分もままあるとは思いますが,批判は覚悟の上あえて大雑把にまとめました。
また,いかにも,通説であるかの様に書かれている部分でも,私の個人的見解にすぎないことが沢山あることを予めお断りしておきます。
子供の頃からの特別な宗教的環境の中にない限り,日本の現代人にとっては,宗教はなかなか縁がなく,宗教が生活の中に溶け込んだ諸外国の暮らしぶりを見るにつけ,不思議に思ったり感心したりします。
ましてや,宗教について特に知る必要もなければ,宗派の違いを理解することは,日常生活では意味のないことです。
しかし,古い建物や書画,仏像等に接すると,それらの解説などに,やたらと宗教用語が用いられ,宗派の違いや教義が理解できていないと,何か釈然としないものが残ります。
例えば,馴染みの深いはずの観音様についてさえ,巡礼する人には,天台宗あり,真言宗あり,と観音様と宗派とはどのような関係にあるのか,素朴な疑問が湧いてきます。
また,教典の一つ法華経や華厳経も色々な宗派により拠り所となる教典の一つとして用いられていて,戸惑ってしまいます。
少し,研究してみましょう。
日本では,神は,山や岩,湖その他,風や木,水,自然界のすべてのものに宿っていると考えられ,人々はそれらを御神体として崇めてきました。
このことは,日本民族が農耕民族であったことと深い関係があるようです。豊かな収穫を祈り,その前提となる集団の健康な暮らしを祈ること,そこに呪術的要素を加えたものが,やがて儀式として整えられ始めました。豊作を占ったり,天候や風水の営みに対する感謝の儀式が積み重ねられ,日本各地で各々の集落を単位として発展し,それらの集団が,抗争を通じて集合離散を繰り返し,巨大化する中で徐々に発展・進化していったものと思われます。
そして,巨大化した豪族の一つであった大和朝廷も同様の事情にあったものと思われます。しかし,大和朝廷の場合は,やや特殊であり,自分たちの祖先を神とし,その神は天に存在すると考えていました。
巨大化した各地の豪族を統一する課程で,少しずつこれを体系化していき,天にいる神と,各地の豪族の信奉する神との間に,序列を付け,それを「天神地祀」(あまつかみ・くにつかみ)としてまとめます。
大和朝廷の天神が,この地に降臨して,この国を統治したことを,自己の統治が正当であることの根拠として用いるようになります。
このようにして,天照大御神を頂点とする,日本の古代の神々が整序されることになりますが,その結果,西洋の神が,超絶的な存在であり絶対的な信仰の対象であるという特色を有していたのに対して,日本のそれは「人神」であり,その点で極めて特異なものとなりました。そして,そのことが,後々に様々な問題を生むことになります。
欽明天皇の時代になると仏教が初めて百済から日本にもたらされます(538年,あるいは552年)。
当時,朝鮮半島は,高句麗と新羅の連合国が百済と対立していました。その百済を,日本が援助して,高句麗,新羅と戦い百済が勝利します。そのことのお礼として,百済から,また百済と親交のあった中国から,仏像等をはじめさまざまな仏具が送られるとともに仏教ももたらされることとなりました。
この中国仏教の受入れにあたっては,その当否を巡って,蘇我氏と物部氏との対立が生まれましたが,当時の外交政策上,受容が得策との考えが大勢をしめ結局受入れることになります。
仏教は当初,国教としての役割を担うものとして導入されました。しかし,次第に大衆を救うことによる,国の安泰,鎮護という風に理解されるようになり,朝廷の中にも,神を祀ることに加え,仏教に厚く帰依する者が沢山出現しました。
このように当時,両者は対立するものではなく,仏教徒でありつつ,神を祀るということは,奇異なこととは考えられていませんでした。
神は,朝廷の祖先であるし,神道は,もっぱら五穀豊穣を祈念するための儀式の体系なのです。一方,仏教は,多少の変遷はあるものの,病老・死苦・争い・貧困等を救済する現世利益のためのものでした。それまで神にこれらの救済を願うということは,無かったのです。このような現世利益は,仏に祈ることによってしか救済の途はなく,両者はいわば守備範囲を異にしていたのです。
奈良時代に入ると仏教は次第に足場を固めてきます。
「三論宗」「法相宗」「華厳宗」「律宗」「倶舎宗」「成実宗」等のいわゆる南都六宗は,その名にもかかわらず,宗派というよりはむしろ学派の様相を色濃く持つものでした。
仏教は,すでに大乗を知っていたにもかかわらず,この時代までは,あくまでも鎮護国家のための教義が中心であり,僧侶や一部貴族のための学問研究の対象であったと考えられます。大衆を救うことによる国の安泰,鎮護との理解は,僧侶,一部貴族にあるだけで,民衆が自分の宗教として仏に祈ることはあまり多くはありませんでした。
800年頃,最澄,空海は唐に渡り,様々な教義や教典等を持ち帰ります。仏教を民衆救済のための宗教と位置づけ,そこに呪術的要素を加味して民衆の心をつかみます。「真言宗」・真言密教(東密)や「天台宗」・天台密教(台密)となって開創されることになるのです。
この密教は,それまでの,「顕教」が仏の教えは,教典等を通じて理解しうると考えていたのに対し,仏の教えは,言葉では言いあらわせないことが多く,それは修行を通じて,はじめて知りうるものである,としました。
密教は,山岳修業を重視することから,その頃の民衆信仰の対象であった日本各地の自然物を御神体としていた土着の神々と交錯することになります。
そこでは,これとの衝突を回避すべく,神と仏の融合,神の取り込み等が図られることになります。
その際用いられたのが,「仏様は様々な姿に身を変えて信ずる者の前に現われる」との教義であり,具体的には,仏が神に姿を変えて,衆生の前に現われた,と説明する立場が有力になります。これを「本地垂迹説」と呼びますが,これにより,神と仏の融合は完成されたといってよいでしょう。重要なことは,あくまで仏が中心で,神は仏が日本的に変身した姿だ,ということです。
このようにして仏教は次第に日本各地に浸透していきますが,その際,天台宗の果たした役割には計り知れないものがあります。
天台宗は,もともとは中国の天台智(ちぎ)の教説ですが,それを日本に持ち込んだ最澄は,これに密教,禅法,円戒を加えて「四宗融合の法門」を唱えます。そこから密教的要素を備えたり,浄土教や禅,さらには,天台智(ちぎ)の教説に忠実な日蓮の教義等が産まれてきたのです。
平安時代の中期頃から流布し始めた末法思想を背景に,その頃,天台宗で学んだ円仁,源信は,阿弥陀仏の西方浄土に往生し成仏することを説く浄土教を研究します。
一方,法然,親鸞,一遍らも,比叡山で天台宗を学びながら,大衆に身近な浄土教の教えに傾倒していきます。やがて,法然,親鸞,一遍が,「浄土宗」,「浄土真宗」,「時宗」の開祖となります。
他には,道元,栄西,日蓮等が,やはり延暦寺で学び「曹洞宗」,「臨済宗」,「日蓮宗」等の各宗派を草創します。
天台宗から派生したこれらの宗派は,鎌倉時代に一斉に開花しますが,蔓延していた末法思想と相まって,一般大衆を救済するという色彩を非常に強くもつものとなります。
今日の日本の仏教界の大部分の宗派が鎌倉時代の始め頃に出揃ったことからすると,最澄の教えが300年を経て花開いたと言うことができます。言い換えれば日本仏教の基礎を最澄が用意したといっても過言ではありません。空海に比べるとどちらかと言えば,影の薄い最澄ですが,教義として分かり易いものを用意し,弟子を育てる能力という点からすれば,最澄に軍配が上がったといえます。
仏教は,当初,鎮護国家のためのものとして受け入れられましたが,その後,学問の対象となり,やがては衆生救済のためのものとして理解されるようになっていきます。
受容当初の素朴な理解からはじまり,大陸仏教自体の変遷も徐々に研究対象になるようになり一層理解が深まっていきます。
教義を理解し修行を積むという「自力」を傾けた者だけが,成仏できると考えられた頃もありましたが,そのような修業は一般大衆にはなかなか困難でした。
しかし,人間をはじめ全てのものが等しく「仏」になれる「仏性」を備えていることを基本理念とする仏教は,大衆でも仏になれる道を用意すること必要です。仏教は,日本においては,民衆のための宗教へと変化していきます。
その最たるものが,浄土宗で,念仏だけを唱えれば,「他力」として阿弥陀仏により救済されるという教義が唱えられます。これにより誰もが成仏できることになり,浄土宗が急速に広まります。
また,この頃から,同じ信仰心をもつ者が集団を形成し集団としての宗派が生じ,盛んに統一行動をおこすことになります。
では,これまで述べてきた仏教とは一体どのような宗教なのでしょうか。仏教の各宗派が互いに他を排斥しないことを理解するには,「三身説」を知る必要があります。
三身説とは,仏の教えを3つの視点,3つの段階から説明し,三種の仏を区別して仏教を理解させようとする考えです。言い換えれば,「仏」とは,即,お釈迦様,だけを意味する訳ではない,ということです。
三種の仏とは,すなわち
宇宙・自然の真理たる「法身」,その現れである毘盧舎那仏,
仏性のはたらきである「報身」,その現れである智恵と慈悲心を感得する阿弥陀仏,この世で,以上のことを悟った人間を「応身」,その現れである釈迦牟尼仏,
とします。
日本の各宗派は,崇める本尊を異にします。
例えば,
真言宗は,法身の面から毘盧舎那仏(大日如来)を,
浄土各宗は,報身の面から,阿弥陀仏を
天台宗・禅宗各宗・日蓮宗は,応身の面から,釈迦牟尼仏を,
それぞれ本尊とします。
このように,各宗派は,「仏」すなわち宇宙・自然の真理に対し異なる視点から到達しようとするものです。もっとも,これは極めて大雑把な理解であり,各宗派は,拠り所とする法華経,華厳経等の経典やその重点の置き所等の違いからさらに分派していきます。
なお,禅宗各宗は,禅を重視することから特別な教典を持ちません。
このように宗派は別れ,一つの宗派の中でもさらに分派ができます。そのような中で,天台宗は,特殊な活動をしました。
天台宗は寺門派と山門派とに分裂し,両者が互いに他を排斥しようと争います。武力を用いてまで争うのは珍しいと思いますが,まさに「坊主にくけりゃ,袈裟まで憎い」といったところでしょうか。
山門派は,京都,湖西,北陸と勢力を伸ばし,政治との関係が断ち切れません。
また,寺門派も,三井寺を中心に,湖東から東海道を支配します。源氏と平家の争いに加担したり,巻き込まれたりして,多くの僧坊を焼失したりします。この混乱は,信長の比叡山全山焼き討ちまで続くことになります。
政治との関わりという点からは,浄土真宗も,混乱の様相を深めていきました。
一向宗(浄土真宗)は,念仏を唱えるだけで浄土に行けるという浄土教をさらに簡便な教義に変えることにより農民の間に急速に広まります。
戦国時代に蓮如が出るに及んで,浄土真宗の建て直しをはかります。その結果,一大勢力に成長し,本願寺繁栄の基礎を造りますが,信仰の自由を求め一向一揆が各地に勃発します。もっとも,蓮如は,必ずしも,これを指導したわけではなく,各地の農民がそれぞれの総意で一揆を起こしたようです。
中でも,三重県長島の一向一揆は全国統一を目指す信長を最後まで苦しめます。
信長は,これにより,宗教に対する特別な認識を持つようになり,弾圧に向かいます。しかし,キリスト教には特別な興味を示しました。
この時代の宗教としては,禅宗,日蓮宗の台頭を挙げなければなりません。禅宗は,武士の質実剛健な風姿と近親性を持ち,宋の時代に隆盛となったことと相まってこの時代に急激に浸透します。
日蓮宗も法華経の重視を唱え特殊な発展をみせます。
また,キリスト教の伝来が日本に与えた影響は想像を絶しています。
石山戦争は本願寺の敗北で幕を閉じますが,各地で力を蓄えます。秀吉はこの本願寺に対し懐柔を試み再建に協力します。
家康は,再興なった本願寺の東に東本願寺を建てさせて勢力を大谷派と二分することに成功します。
また,家康は,仏教各派を取り込み,檀家制度の創設等により,庶民の活動や生活を把握します。それにより仏教界は安定しますが,その上に胡座をかき,これといった発展はなくなります。
キリスト教と日蓮宗の一部は,江戸幕府にとりまとめられることに反発し,受難の道を選びます。
封建体制の崩壊後,明治維新政府は,廃仏毀釈を通じて,仏教に代わり,神道を国の精神的な支柱にしようと試みます。しかし,その結果,軍国主義の台頭を許し,二度の大戦へと突き進みます。
敗戦後は,憲法に政教分離が規定され,現在に至っています。
また,やはり憲法により信教の自由が認められ多くの教団が成立し,国家の干渉を排除した宗教活動が盛んに行われています。
一部には,逸脱して不幸な結果を生じさせてしまう宗派もあります。
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