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日本史のおさらい

思い出してください。

 国宝を心ゆくまで鑑賞する方法の一つとして,それらが建てられあるいは造られたその頃を思い描きながら鑑賞する,という方法があります。
 そこで,建造物建立当時や仏像の造られた時代を思い描く助けとして,日本の歴史をおさらいしましょう。

 ご存じのことばかりとは思いますが,批判は覚悟の上あえて大雑把にまとめました。
 また,いかにも,通説であるかの様に書かれている部分でも,私の個人的見解にすぎないことが沢山あることを予めお断りしておきます。

概略

  他の国と同じように、日本の歴史を理解するには、どのような勢力が政治を動かしていたか,という視点から検討するのが有益です。それぞれの時代には時々の政治の担い手の特色が、芸術や宗教等に色濃く反映されるからです。
 日本の歴史のターニングポイントは3つあります。

 1つは,大化の改新です。
 大化の改新により、それまでの有力豪族による事実上の国内統一から、不十分とはいえ近代国家に必要な様々な法律制度、行政組織の上に,政治が運営されるようになります。政治の担い手は天皇・朝廷とそれを取り巻く一部の特権貴族です。文化も彼らが中心の貴族的趣味が随所にあらわれます。

 2つめは,鎌倉幕府の成立です。
 政治の担い手がそれまでの朝廷・貴族から武士に代わります。鎌倉幕府以後,室町,徳川と約7世紀の間、武士が統治する時代が続きます。それまでの王朝文化は姿を消し,代わりに質実剛健な「武家文化」ともいうべき気風がいたるところに出てきます。また,安土・桃山時代や江戸時代では,武士を支えた豪商を中心とする町人文化の隆盛も見逃せません。

 最後は,明治維新です。
 幕藩体制が崩壊し,武家政治が終わりを告げます。そして,新たに民衆による政治が始まります。その結果、それまで文化の中心になることが殆ど無かった大衆が文化を創り出し始めます。

 以下では、国宝を鑑賞する上で役に立つと思われる歴史上の出来事を,もう少し詳しく見ることにします。
 なお,時代区分の方法は政治の担い手や政情の他,芸術・文花等様々な観点から分類することができ,それぞれの分野で異なった呼称が付せられていることもありますが,ここでは便宜的にそれらを併用しています。異論はあろうと思いますがご容赦ください。

上古・有史以前

 この時代は、文字資料がなく、また残された遺物的資料も土中に、あるいは海中にあること等から、絶対数が発見できずに分からないことが多いのが実情です。そのため、学者の見解も通説的なものはなかなか形成されず、流動的です。

旧石器時代

 旧石器時代は、絶滅大型動物との共存、打製石器は使用するも未だ土器の使用はない、といった特色が認められる時代です。日本列島にいつ頃から人類が住み始めたか興味のあるところですが、酸性雨に弱い人骨は、発見されることがなくほとんど解明されていません。また、火山活動が活発な頃は、環境的に居住は難しく人類が住み始めたのは、そんなに遠い昔ではないと考えられていましたが、戦後火山灰の堆積層から石器が発見され、相当昔から列島にも人類が生存していたと考えられるようになりました。
 なお、ヨーロッパでは旧石器時代の次に新石器時代が到来しますが、日本では、その次の時代区分としては縄文時代と呼ばれるのが一般です。 

縄文時代

 今から、約1万年ほど前、すなわち紀元前8000年ほど前頃から、紀元前約1000年前頃までを縄文時代といいます。
 この縄文時代という呼称は、縄目の紋様が飾りとして附けられた土器が作られた時代をあらわすものとして命名されました。そして、その時代は、それまでの大型動物の捕獲を中心とした生活から、森の木の実の採取や小型動物、魚の捕獲、また貝類を拾ったり、雑穀類を育てたりといった生活の変化が顕著に見られる時代でした。
 しかし、この縄文土器が使用された時代との言い回しは、一見とても明確で、一時代を画する概念としても有益であるように思えましたが、旧石器時代の終了から弥生時代の始まりまでをこのような土器の形状だけで区分することが果たして可能なのか、疑問があります。
 そこで現在では、縄文時代の名はそのまま用いるものの、旧石器時代の特色が薄れた頃、すなわち地質学的には更新世から完新世に入る頃から、灌漑稲作が始まる頃までを縄文時代と呼ぶのが一般です。
 厳冬期の後、一転、気候が温暖化して海水も上昇する(海進)ことにより、生活環境が激変し、それまでの大型動物の捕獲を中心とする生活様式から、森林から木の実を得たり、海浜から海産物を獲得する等、生活が一変します。そしてこの時代は、灌漑稲作の普及により、生活環境が、変化することにより終焉を迎えます。
 なお、この時代の国宝としては、縄文のビーナス、中空土偶等土偶3点があります。

弥生時代

 紀元前1000年前頃から紀元後300年頃までを弥生時代と呼びます。
 この呼び名は、東京上野の弥生町から発掘された特色ある土器にちなん命名されました。そして、この時代の生活様式としては、稲作が始まり生活様式に変化が見られはじめる、と考えられてきました。しかし、縄文時代と同様、土器の特色だけで、この時代を一括りにすることは困難です。そして、ここでも生活様式を基本に時代を括ることが検討され、稲作の導入を中心に、呼称だけは、従来通り弥生時代を使用することになりました。
 そして、稲作の開始時期につき研究が進展するにともない、弥生時代も紀元前1000年前頃まで遡ることとなりました。
 この弥生時代は、稲作の普及により、大規模な灌漑設備が求められ、そのため各地に集団が生まれ、やがてその中で階級が生まれ、身分差、貧富の差も生ずることになります。そして、他の集団との闘争、自衛手段の構築等から集団間の集合離散、連合が繰り返されるようになります。
 なお、この時代の国宝としては、金印、銅鐸、銅矛類等があります。

古墳時代

 日本各地の豪族を徐々に大和朝廷が統一していきます。この頃前方後円墳が,大和地方を中心に各地につくられます。同様の古墳が朝鮮半島でも発見されることから,日本が模倣したのか,日本の形式が朝鮮半島に輸出されたのか,朝廷の起源を巡って争われました。最近では,朝鮮半島の墓の出土品が日本のそれよりも新しいことから,単に,日本の形式が海を渡ったに過ぎないと考えられているようです。
 いずれにしても,その正確な答えを得る一番の近道はこれら古墳の埋葬品の公開です。埋葬品の中には,この謎を解く鍵が沢山含まれているはずです。しかし,宮内庁は古墳が天皇家の「お墓」であることを理由に公開を拒んでいます。
 奈良付近には,未だ誰の墓か不明な墳墓がそのまま保存されています。せめてそのような古墳だけでも公開することが望まれます。天皇家の祖先を含め、公開により歴史が塗り替えられることは間違いありません。早期の公開が待たれるところです。

 それはともかく,出雲朝廷と大和朝廷の関係や,大陸からやってきた騎馬民族が日本を征服したのかなど,この時代には文字による記録が残されていないだけに様々な説が唱えられています。しかし、いずれの見解もわずかな資料から妄想に近い推論を加えたものが多く、決定力に欠けます。
 また、外国には,この頃の日本に関する記述がわずかではありますが、残されています。しかし、伝聞や他の資料の引用も多く、確実なところは少ないようです。
 もっとも,日本において編纂された古事記,日本書紀等の叙述は,特定の編集者の特定の意図の下に歪められているのは間違いありません。その意味では,外国の記述の方が信頼に足る部分も当然あります。さらなる研究がまたれます。

飛鳥時代(仏教伝来の538年頃から大化改新645年頃まで)

 欽明天皇の538年に仏教が伝来します。この受容をめぐって蘇我氏と物部氏が対立します。蘇我氏は仏教の導入に積極的,一方,物部氏は消極的でした。しかし,朝廷の外戚として実権を握りつつあった蘇我氏の勢いがまさり,鎮護国家ための仏教として導入がすすめられます。
 そして,敬虔な仏教徒である聖徳太子が摂政となるに及んで,仏教を中心とした国家の建設が積極的に推し進められます。その結果,沢山の寺院が各地に建立され仏教文化が花開きます。
 この時代の為政者の特徴として、朝廷内部の,言い換えれば親族間での,血で血を洗う陰惨きわまる壮絶な争いをあげることができます。このような血腥い世相の中で,聖徳太子は沢山の寺院を建立し国家の平穏を祈るとともに,17条の憲法を制定して,政治の基本姿勢や目標等を朝廷,豪族に示します。その1条には「和をもって尊としとなす・・・・。」と記され凄惨な時代を生き抜いた太子の悲痛な願いが強くでています。
 一般に,飛鳥時代は推古天皇の時代を中心に,仏教文化の揺籃期として様々な宗教芸術が栄え,それとともに中国,東アジアからの影響を色濃くうけた時代と考えらられています。

白鳳時代 (645年大化改新頃から710年平城京遷都頃まで)

 太子の没後,天皇との姻戚関係形成を軸にますます強大となる蘇我氏に対し,中大兄皇子と中臣鎌足が結束して対抗し,蘇我氏を打倒,645年大化改新を断行します。
 そのころ,中国は隋に代わり唐の時代となっていて律令国家の建設が進んでいました。その律令制度を手本に,二人は新しい国家の建設に着手します。
 しばらくして中大兄皇子は天智天皇として大津宮で即位し,中臣鎌足も,朝廷より藤原姓を拝し,政治の中心的役割を担います。これ以降,藤原家は永く歴史に登場するようになります。 

壬申の乱

 天智天皇の治世がしばらく続きますが,その没後,天智天皇の長子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子との間に皇位継承を巡り争いが起こります。これが壬申の乱です。この争いで大海人皇子が勝利して,天武天皇となり,それまで大津にあった都を飛鳥浄御原に遷します。日本書紀等の記述によれば、皇位を巡る争いを避けるために大海人皇子は吉野に出家しますが、大友皇子に疑いをかけられ攻撃をしかけられ仕方なしに戦い勝利した、ということになっていますが、その準備の良さから計画通りの行動だったと考えられています。
 なお,「天皇」の呼称は天武天皇の頃から用い始められたと言われています。
 その天武天皇は701年に大宝律令を発布し,「公地公民」を基礎にした律令国家体制を確立しますすが,その没後は,その皇后が持統天皇として藤原京で即位します。

奈良(天平)時代  710年頃からから794年頃まで

 元明天皇が710年に都を平城京に遷した後に即位した聖武天皇は,恭仁京,難波京,紫香楽京と都を転々と遷した後,またもとの平城京に戻します。
 光明皇后(藤原不比等の娘である光明子)とともに熱心な仏教徒の二人は仏教を中心とした国家の建設をすすめます。
 その間,藤原氏は天皇の外戚として権力を掌中にし,長屋王の変や道鏡の排斥等により,その体制を強固なものにしていくことになります。
 「咲く花は匂うがごとし」とまで謳われた奈良時代は仏教文化が開花し,大仏殿も建立されましたが,決して平穏な,麗しい時代ではありませんでした。僅か数年の間の度重なる遷都や天皇の姻戚間,貴族間の血みどろの争いに都は疲弊していました。

平安時代 794から1192まで これを初期,中期,終期に分ける

 平安時代初期 弘仁・貞観時代(894年遣唐使の廃止頃まで)

 桓武天皇は即位後,784長岡京,794年に平安京へと遷都します。その頃から約4世紀にわたる平安時代が始まりますが,894年に遣唐使が廃止される頃までは,天皇を中心に太政大臣,右大臣,左大臣等により,まがりなりにも親政(天皇による政治)が行われました。
 しかし,狭い血族の中から統治に優れた人物を得ることは難しく,しばらくすると親政も行われなくなり,摂政,関白が,天皇の行う政治を補佐するという所謂「摂関政治」が行われることになります。その中心は他氏を排斥し,積極的な天皇との外戚関係の形成に成功した藤原氏です。

 平安時代中期 藤原時代(国風文化)894年頃から1086年頃

 894年に遣唐使を廃止したことにより,日本風の文化が生まれることになりました。建築では寝殿造りといった様式が好んで用いられ,ひらがなが発達し,「源氏物語」,「枕草紙」などが書かれました。

 これらの文化は道長の登場により絶頂を迎え,「望月のかけることなし」と我が世の春を謳歌しますが,1027年に没した後は,その藤原氏の栄華にも翳りが見えはじめます。
 ところで,長年の豪奢な貴族政治を支えたのは地方に課せられた重い税に他ならなかったのですが,貴族が都で現を抜かしているころ,地方は大変乱れて中央からの目も行き届かず疲弊していました。
 荘園を実力で管理していた武士達はこの乱れに不満を持ち始め各地で反乱を繰り返すようになり,それを鎮圧できない貴族に代って武力に優れた武士集団がそれを鎮めることが度重なり,武士は力をつけるとともに,己の実力を自覚していくことになります。しかし,未だ政治の実権を手にするまでには成長していませんでした。

平安時代終期   院政時代 1086年から1192年

 平安時代の末期には,白河上皇が「院政」すなわち天皇に代わり上皇が政治を行うことにより,朝廷が政治の実権を藤原氏から奪い返します。しかし,その頃,各地に誕生した武士集団は源氏とそれに比してやや劣勢な平家との2大勢力にまとめられはじめました。
 源氏の強大化を恐れた白河上皇は平氏を擁護し源氏の勢力弱体化を画策しますが,平清盛はその庇護の元で頭角を現し,やがては平治の乱により源義朝を破り,政治の実権を握るまでに成長します。
 ここから「奢る平家」が始まりますが,それも久しくは続かず,後白河上皇との対立を経て,1185年に源氏により滅ぼされます。
 宗教界では1052年から始まったとされる仏教の末法思想を背景に,念仏を唱えるだけで往生できるとする浄土宗が流行します。

鎌倉時代 1192年から1338年

 源頼朝は、1192年に征夷大将軍に任ぜられ、この時鎌倉幕府が開かれたとするのが一般です。ここから武家政権が始まるわけですが、鎌倉幕府が必ずしも日本全土を支配したわけではありません。鎌倉幕府は、守護、地頭を全国に配置しその支配体制を強固にしようと試みますが、朝廷は相変わらず全国に国司を任命していて決して政治の世界から遠ざかったわけではありませんでした。その結果、日本は幕府と朝廷の2重統治体制が行われていたのです。頼朝が幕府を開いたと聞くと、即、江戸幕府と同様に考えがちですが、実体は朝廷から統治権の一部を譲り受けたにすぎませんでした。鎌倉幕府が統治したと言えたのは東国、関東周辺にとどまります。京の都より西は、むしろ旧来の朝廷の勢力がそのまま温存されていて朝廷の権威に頼ることなく、全国を統治した江戸幕府と大きく異なります。
 しかも、源氏が曲がりなりにも幕府を経営したと言えるのは、3代実朝まででした。その後は源氏の血筋も絶え、藤原家や皇族から名目だけの将軍を迎えま、将軍は結局9代まで続きます。それを支えたのは頼朝の妻となった北条政子やその実家の北条氏です。
 北条氏は、将軍職はそのままにして執権として幕府の実権を握ります。その執権は将軍職とともに初代時政から8代時宗を経て16代守時まで実に150年間もの間継続します。
 このように長く続いた執権職でしたが、その中頃からは、北条家の中の主家である得宗家が幕府を掌握することになり、執権も将軍同様、名目だけの機関になります。
 このように政治の実権が将軍から執権へさらには得宗家の当主へと移ったということは、武家政権の中に矛盾と対立が生じていてそれを除去すべく体制を変更していたことに他なりません。
 しかも、その得宗家に対しても御家人らの不満が大きくなっていきます。
 反北条の機運の広がりは朝廷にとって北条氏打倒,親政回復のチャンスでしたが,朝廷内も大覚寺統と持明院統とに分かれ争ってまとまりがありません。

 鎌倉時代は、武家政権を反映して質実剛健な文化が花開きます。仏教は浄土宗,浄土真宗,禅宗,日蓮宗等が出そろい飛躍的な発展をします。

建武の新政

 反北条の機運が広がる中,政治から遠ざけられていた朝廷の代表として後醍醐天皇が倒幕の狼煙を上げます。しかし,一度は失敗し隠岐に流されますが、その後も朝廷側の反攻は続き,新田義貞,楠正成らの悪党が朝廷(倒幕側)側に加わり,足利高氏も鎌倉幕府を裏切ったことから,北条氏の支えてきた鎌倉幕府は滅亡することになります。1333年のことです。
 
その1333年に後醍醐天皇の建武の新政が始まりますが,恩賞目当てに倒幕に加わった武士達には恩賞が少なく,反面,何らの貢献もなかった公家を優遇したため,武士達から不満の声が噴出します。

 中でも征夷大将軍を望んだ足利高氏には後醍醐天皇から「尊」の字を賜っただけで全く不満だったようです。
 その憤懣やるかたない足利尊氏はついに後醍醐天皇に反旗を翻し湊川の戦いで楠正成を倒し京の都を制圧します。1336年のことです。
 足利尊氏は1336年建武式目17条を定めて政治の実権を握り,全国統治に乗り出します。この時から幕府が開かれたと解する立場もありますが、2年後の1338年には朝廷から征夷大将軍に任ぜられ名実ともに室町幕府が開かれることになります。

室町時代 (1336年から1573年まで)

 足利尊氏の幕府は、当初から南北朝の対立や弟直義との確執から安定とはほど遠い状態でしたが、3代義満の頃になると管領や所司の体制が整い(三管四職)有力守護との連合により統一が実現されます。その勢いを背景に南北朝をも統一し、朝廷権力を限界まで取り込みます。日明貿易では「日本国王」の座を狙ったりするほどになります。その義満が京の相国寺に隣接した北小路室町に室町第を構えたことから足利氏の幕府は、室町幕府と呼称されることになります。
 その室町幕府は、1573年に15代義昭が信長により追放されるまでの200年間あまり続きますが、最も安定していたのはこの義満の頃で足利氏の権力掌握は決して十分ではありませんでした。
 後醍醐天皇が吉野で皇位の正当性を主張した南北朝時代や,全国に群雄が割拠し、下剋上に象徴される戦国時代という呼び名が、200年の間に用いられたりします。

 この室町時代には、義満の北山文化,8代義政の東山文化と呼ばれる、ともに雄壮で豪華な文化が花開きますが,室町幕府が篤く保護した臨済宗の各寺院が当時の学問や芸術等各方面に及ぼした影響は見逃せません。
 この室町時代を,南北朝時代,応仁の乱,戦国時代に分けてもう少し詳しく見てみましょう。

南北朝時代

 京に幕府が開かれた頃,足利尊氏により幽閉されていた後醍醐天皇が密かに吉野に逃れ,京の北朝に対し南朝を宣言し,ここに「南北朝時代」が始まります。
 当初は単なる皇位争いであり,後醍醐天皇の崩御とともにこの混乱も終息すると思われていましたが,室町幕府を掌握していた尊氏とその弟直義との間で争いが始まり,尊氏がこともあろうに後醍醐没後の南朝後村上天皇を担ぎ出したことから南朝は再び息を吹き返します。

 その南朝は後村上天皇が,これまた、あろうことか尊氏に反旗を翻し南朝の完全な回復をはかろうと画策したりしましたが、結局は義満に押さえられ南北朝の合一が成立します。この南北朝の混乱はなんやかんやで約60年間続きました。

 南北朝の並立を終息させた義満は京都室町に花の御所を造り天皇家をも凌ぐ勢いがありました。しかし、6代義教は、それまでの有力守護との連合、合議制、談合政治に飽きたらず、専制政治への道を歩み始めます。そこで、多くの守護が危機感を抱き、その中の一人赤松満祐に暗殺されてしまいます(嘉吉の乱)。逆賊赤松を追討する者もなく,ここに足利将軍の権威は失墜します。 

応仁の乱

 その機に乗じて幕府の実権を握ろうと守護大名細川勝元と山名宗全の2大勢力が対立し、各地の有力守護もその2派に連なるようになります。8代義政は9歳で将軍となりますが、実権は、母である日野重子、細川勝元、山名宗全らが掌握します。そのような状況で成長した義政に政治に対する意欲は全くありません。子供もなく風流人を気取る義政は弟の義視に将軍職の譲位を約束します。将来の将軍と見込んですかさず細川勝元が後見人に就任します。
 しかし、日を置かずして,義政の正室日野富子が義尚を産みます。母となった富子は我が子を将軍にすべく,山名宗全を引込みながら細川の勢いを削ぐべく畠山一族の家督争いにも口を出したり細川勝元と朝廷との連絡を遮断したりします。
 耐えかねた細川勝元は、幕府を占拠し1467年に応仁の乱が勃発します。
 この混乱は10年以上の長きにわたり京都をことごとく焼き尽くし都の大半を焼き尽くします。その結果,多くの建造物が焼失しましたが、1227年建立の大報恩寺(千本釈迦堂)は難を免れ,京都市中の現存最古の木造建築となります。8世紀,9世紀の木造建築物が沢山ある奈良市内と比較すると,その悲惨さは顕かです。
 なお、この大報恩寺(千本釈迦堂)本堂は国宝に指定されています。

戦国時代

 将軍として形式的に代替わりを続けている室町幕府を尻目に,応仁の乱終息後は各地に群雄が割拠し,下剋上の風潮が一段と広がります。戦国時代です。特筆すべきは、全国統一を目前にまでこぎ着けた三好氏の台頭です。
 その後は、斯波氏の守護代であった織田信長が戦国大名として名をあげます。信長は、天下統一を夢見て,足利義昭を奉じ京の都に入ります。
 信長は義昭を15代将軍にまつりあげ実権を握りますが、1573年にその義昭を追放し,ここに室町幕府は終わりを告げ、織田信長が事実上天下をとることになります。

 信長は鉄砲等の武器入手したり,キリスト教を受容するなど西洋の進歩的文明を積極的に取り入れました。しかし,その一方で日本の宗教とはことごとく対立し,比叡山の焼き討ちや一向宗の徹底した弾圧等を行いました。
 一向一揆の平定に手間どる中,信長は天下統一を目前に明智光秀により本能寺に暗殺されその壮大な夢は絶たれます。

安土・桃山時代

 その期を失することなく,豊臣秀吉が信長の後継者として名乗りをあげ着実に天下を統一していきます。
 太閤検地,刀狩り等の様々な策を弄して,曲がりなりにも九州から奥州までの平定を果たしますが,思いはこれにとどまらず,朝鮮半島にまで手を伸ばすも完全に失敗し勢いが止まります。

 秀吉没後は,また元の群雄割拠状態になりかけますが,ここでも期を失することなく老獪な徳川家康が,1600年の関ヶ原の戦いを経て1603年に征夷大将軍となり江戸に幕府を開くことになります。
 なお,安土は信長の建てた城のあった地名,桃山は秀吉の建てた伏見城の跡地の呼び名です。

江戸時代

 徳川幕府は15代続き,世界史的にも驚異的な安定した時代でした。文化の担い手も武家ばかりでなく町民らも加わり自由な風潮が広がります。
 しかし,江戸幕府は仏教に対しては、付かず離れずのスタンスで臨み、檀家制度を確立して人民の動向を把握する等、支配機構の中に組み入れようとします。 一方、応仁の乱で戦火にまみれた京都に沢山の社寺等を建設し仏教界の懐柔を図ります。
 現在国宝に指定されている建造物の多くは,この頃に建立されたものです。

明治時代以降は,省略します。

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