国宝を訪ねて 国宝建造物編48

銀閣寺

                            前の国宝再訪次の国宝訪問

 さまざまの ことにふれつつ嘆くぞよ
        道さだかにも 治め得ぬ身を

足利義政
山号・寺号 東山慈照寺(とうざんじしょうじ)
所在地 京都市左京区銀閣寺町
起点駅・目安時間 京都駅・40分
経路 バス銀閣寺道下車 徒歩5分
国宝建造物 2 銀閣(観音殿)・東求堂
国宝仏等 なし
その他の国宝 なし 
お薦め ★★★★

銀閣寺垣

 おだやかな銀閣寺道に沿って土産物屋が並んでいる。主に修学旅行生を相手にしているのだろうか,たわいのないものや食べ物が多く並べられている。土産物屋を冷やかしながらゆっくりのぼって行くと総門は正面だ。
 その総門のすぐ前はいきなり生け垣が立ちはだかり行き止まる。それを直角に折れると参道がはじまるが,背丈の3倍以上はありそうな生け垣が両脇からせまる。明らかに西洋の作庭技術の一つである遠近感を強調するビスタ手法を取り入れた参道が50メートルほど続く。銀閣寺垣である。
 2段組の石垣の上に竹垣を配し,その上から椿などの生け垣が覆う。寒い頃には赤い花が美しい。

国宝2件

銀閣(観音殿)

 参道の突き当たりをまた直角に折れて案内を抜ける。まず,円錐状の砂山の上半分を取り去ったような向月台と呼ばれるオブジェが目に入る。いつ頃から何のためにこのようなものが在るのか,一瞬いぶかしがることになるが,気を取り直し目を右に転ずると厳かで風格の漂う銀閣が目に入る。
 
 銀閣は,足利幕府八代将軍義政が権力をほしいままに用いて造った山荘東山殿の中心的建物である。一階は腰高障子を廻らした書院風,二階は花頭窓と高欄を廻らした仏殿風になっている。なだらかな東山の山並みの端に溶け込んでいる。
 西芳寺の瑠璃殿を模して造られた銀閣は,構想から完成まで10年に及ぶ歳月と庶民に多くの犠牲を押しつけて建造された。飢饉,兵火の中での重税と徴用,その中での隠居所の建造。しかし,今では何事も無かったかのように落ち着き払って佇んでいる。 


東求堂(とうぐどう)

 銀閣の向い,銀沙灘(ぎんさだん)と呼ばれる砂の池を挟んで東求堂がある。東求堂には4畳半の始めと言われる同仁斎と称される茶室の他,持仏堂等の小室がある。なお,この同仁斎は茶室のおこり,と考えられている。
 銀閣寺では,春と秋の年2回,寺内を特別に拝観できる時期がある。特別料金を払うと東求堂の室内も観覧できる。料金は上乗せされるが,最近描かれた奥田宗元の力強い襖絵は,一見の価値がある。

義政と応仁の乱

 銀閣は,政治や権力をめぐる政争に嫌気がさした義政が,自らの無能をかこち,風流三昧に明け暮れるために建造した邸宅「東山殿」の一部である。飢饉や疫病で死者が町に溢れる中,多くの財と人手をつぎ込んで造られた,いわば狂気の館である。大石や大木を運搬する際,沢山の人夫がそれらの下敷きになり死亡していることが「蔭涼軒日録」等に残っている。
 本人はそれでご満悦だったようだが,東山殿造営に着手する前の長い期間,政治をないがしろにしたその間に,9代将軍の座をめぐり義政夫人日野富子もからみ,応仁の乱へと発展していく。
 10年の長期にわたった戦乱は,京の町を全くの焼け野原にしてしまうが,それにとどまらず戦火は全国に広がり,果ては「下剋上」の風潮をも産み出し,100年に及ぶ戦国時代を準備する。
 この義政の人物像を活写したものに,瀬戸内寂聴「幻花」上・下(集英社文庫)がある。
 この本は,その時代を題材の一つとし,しかし,現代からその時代を回想するという風変わりな構成となっているが,瀬戸内晴美の頃の作品のためか極めて大衆文学的で重厚感に欠ける。 

銀閣の名の由来

 北山の金閣寺と対照的に東山の慈照寺は銀閣寺と呼ばれる。金箔を施していることから鹿苑寺が金閣と呼ばれるのは理解できるが,こちらは特に銀箔が施されている風ではないが,何故,銀閣寺と呼ばれるようになったのだろうか。
 興味深いことに,1490年頃の造営当時には銀閣などと呼ばれたり,金閣寺と対比されたりすることは,無かったようである。
 銀閣寺は,1490年,義政の菩提を弔うために東山殿を寺に改め,相国寺の末寺の一つ慈照寺として創建された。しかし,その後,戦国時代に入り,荒廃,誰も顧みる者がいなかった。
 実は,銀閣の呼称は,江戸時代に入ってからのものである。東山殿は,1558年頃の兵火により銀閣と東求堂の国宝2件を残し焼失する。
 その後江戸時代にかけて再建の手が入ったが,その際,金閣寺を意識してか,銀をイメージする砂のオブジェを造ったり,銀閣の庇裏に銀箔を施そうとしたりした跡がうかがえる。

金閣寺

 銀閣寺が,東山文化の代表であるなら,3代将軍義満の金閣寺はいわゆる北山文化の代表である。

 この銀閣寺の兄貴分とも言うべき金閣寺は,かつて国宝であったが焼失しその指定は取り消されている。
 金閣寺から大学に通う21歳の寺僧が,昭和25年に火をつける。この若き寺僧は,その数年後,獄中で病死するが,彼の実母は事件後すぐに,面会に駆けつけた後その帰途,山陰本線の車中から保津峡に身を投ずる。

 この放火事件については,犯人と面識があったという水上勉が週刊誌記事風に「金閣炎上」(新潮文庫)を書いているが,事実という制約があるためか,物語性に欠ける。氏の力を発揮する場が無い分おもしろさがない。
 その点,同じ題材で三島由起夫「金閣寺」(新潮文庫)は,旺盛な想像力にまかせた犯人像を伝えてくる。
 三島が焼失前の金閣に参内していたかは不明であるが,その美しさのゆえに,火を放つしかないと思い詰める屈折した青年の心理を描き出している。その心理を通して金閣寺喪失に対する氏の絶望感がよく現されていて,仮面の告白などとともに三島の代表作の一つにあげらてれる。 

近くに・哲学の道

 銀閣寺の前からは,琵琶湖疎水分流に沿って,法然院,永観堂の前をとおり南禅寺にまで続く哲学の道がある。
 この1.5キロほどの小径に付けられた優雅な響きの名の由来には諸説あるが,一般的なのは哲学者西田幾多郎が好んで散策したからというもの。

                            前の国宝再訪次の国宝訪問


国宝建造物編
8エリア  → 
関東・東北エリア 東海・北陸エリア 滋賀エリア 京都エリア
奈良エリア 大阪・和歌山・兵庫エリア 中国地方エリア 九州・四国エリア
国宝を訪ねてTop 国宝建造物編Home 国宝仏編Home その他の国宝編Home 国宝情報Home

copyright. 2002. kokuhoworld .all rights reserved