国宝仏編

国宝を訪ねて

仏師とその時代

飛鳥時代の仏師

 仏教が渡来した後,しばらくは中国,朝鮮等で造られた仏像が日本にもたらされました。その後,国内でも制作が始まりますが,その中心となったのは,やはり渡来系の人々でした。この時代の仏師の代表はなんと言っても鞍作止利(くらつくりのとり)、すなわち止利仏師でしょう。日本書紀には,飛鳥寺の丈六仏の作者として「鞍作鳥」という名ででてきます。
 この止利仏師の代表作は法隆寺金堂の釈迦三尊像です。その光背の背面に仏師として初めて名が刻まれました。
 この釈迦三尊像の他に,法隆寺大宝蔵殿の金銅釈迦如来像,その脇侍像,あるいは東京国立博物館に寄託されている法隆寺献納宝物中の如来像等が止利もしくは止利派の作品であろうと考えられています。

 この止利仏師の他には、日本書紀にも名を残す、山口大口費(やまぐちのおおくちのあたい)もいましたが,この仏師も渡来人の子孫であると考えられています。

止利派の特徴

 では,その止利派の特徴をあげてみましょう。
 頭上の宝冠が3つに蓮弁状に分けられる,
 垂髪が蕨手状に巻き上がり肩にかかる,
 目が杏仁形をしている,
 天衣の裾が魚鰭状に巻き上がり左右対称になっている,
 といったところでしょうか。
 このような特徴を備えた仏像を見たらその制作年代は飛鳥時代と推定されることになります。

白鳳時代

 この時代をどのように区分するか,とくに飛鳥時代との区分は立場により,あるいは観点により異なります。ここでは,天智天皇の即位後から平城遷都までを白鳳時代と呼ぶことにします。
 
 白鳳時代の仏像彫刻の特徴は,何と言っても朝鮮半島や中国大陸から大きな影響を受けた,という点でしょう。
 唐,新羅の連合軍により百済,高句麗が滅亡します。その結果,両国から多くの技術者や知識人その家族が日本に亡命してきました。それにともない多くの技術や学問等が朝鮮半島から移入されることになり,日本の彫刻界にも大きな影響を与えることになりました。しかし,飛鳥時代からの伝統を護りながら日本で生まれ成長し始めた技術者集団の存在も無視できません。彼らは,独自の経験をまじえ金銅造,木造の技法を完成させますが,その作風には隋時代の影響が強く残ります。
 
 この時代の像には,古拙の笑みも消え,まんまると顔のはった童顔童形の像が多くみられるようになります。

天平時代の仏師

 奈良時代になると盛んに仏像が造られるようになりました。聖武天皇の存在が大きかったようです。
 大勢の仏師が活躍しましたが,官営の造仏所が整備され,その結果,仏像はその工房の作品として扱われたでしょう、個人の名前が出ることは余りありませんでした。
 そんな中では,興福寺司の将軍万福(しょうぐんまんぷく)が,この時代を代表する仏師と言えるでしょう。将軍万福は,興福寺を中心に沢山の傑作を残しています。代表作には,興福寺国宝館の十大弟子像,八部衆像があります。

平安時代の仏師

貞観時代

 平安時代は前期の貞観時代、中期、後期の藤原時代と大きく二つに分けることができます。
 空海、最澄の活躍した前期は、文化史的には貞観時代と呼ばれ,密教文化を醸成した時代を反映し、仏像にもそのような特色がよく出た時代となります。しかし,まだまだ、かつての造東大寺司の作風が多く残されていました。
 この時期に活躍した仏師としては,会理の名をあげることができるでしょう。 

藤原時代

 そして時代が下がり,国風文化が隆盛となって、藤原氏の庇護のもと定朝を中心に多くの仏像が造られるようになります。
 末法思想が広く流布されるこの時代になると,阿弥陀信仰が全国的に盛んとなり,多くの阿弥陀仏が都の「仏所」と呼ばれる工房で造られるようになり「寄木造り」の発達もあって全国に送られ祀られるようになります。寄木造りと呼ばれる製法が,全国各地の,しかも沢山の需要に応えることになります。
 
 この時代は,康尚(こうじょう)とその弟子,定朝及び定朝の弟子達が大活躍し,和様彫刻を完成することになります。しかし,定朝の没後(1057年)は,弟子達は,円派、院派、慶派等に分派して次の時代への橋渡しをするようになります。
 
 円派は定朝の弟子,長勢を祖として定朝の孫弟子円勢以後「円」の字をつけます。
 また,院派は,定朝の子,覚助を継いだ院助を祖として「院」の字をつけます。この両派は主に京都貴族の需要を中心に彼らに作品を提供します。
 これに対し慶派は,「奈良仏師」とも呼ばれ,来るべき次の時代,鎌倉時代に大きく花開くことになります。奈良を地盤とし天平時代の古典彫刻に接しながら,東大寺,興福寺の復興を支え,また鎌倉を中心とした東国武士の需要に応えます。 

鎌倉時代の仏師

 鎌倉時代は、貴族文化から武士の文化への転換期であり、その文化には質実剛健な気風があふれます。また,宋,元との交流によりもたらされた様々な文化がそれに影響を与えます。仏像の作風にもこれらの影響は如実に現れ,例えば,それまでの木造中心から塑造,鉄造へと変化することになります。
 この時代を代表する仏師と言えば,慶派の仏師の名があげられることになります。
 
 慶派とは、興福寺お抱えの仏師として奈良を中心に活躍した康慶、運慶親子の系統に属する仏師集団です。
 この派の中心,康慶は二人の有能な弟子を育てます。運慶と快慶です。康慶の実子である運慶は、写実性にすぐれた力強い造形で知られます。
 快慶は,運慶と二人で東大寺南大門の仁王像を造ります。その際,運慶の実子湛慶と定覚もこれに協力しています。               

その後の仏師達

 しかし,鎌倉時代を過ぎると,新しい仏が造られることはあまりなくなります。
 南北朝時代では,作風もそれまでの厳しさ,逞しさがなくなり,丸くのんびりとしたものになってゆきます。
 この頃の特筆すべき点としては,禅宗で盛んとなった頂相(ちんぞう)の製作があげられます。頂相とは,祖師像のことで,禅宗が盛んとなったこの頃,沢山の頂相が造られました。しかし,後世に名を残すような仏師は現れませんでした。 

仏師の消滅

 室町時代や戦国時代,江戸時代等にはこれといった仏師は出現しませんでした。わずかに円空や木食(もくじき)が特徴のある独自の作風で名を残している程度です。
 どうしてでしょうか。
 それには仏教の変化,流行が大いに関係しています。
 鎌倉時代に仏教は文字どおり百花繚乱の様相を呈しましたが,浄土宗,浄土真宗後は,法華経といった経文自体が礼拝の対象となったり,禅宗のように自力で仏になるべく修業する,といった日蓮宗,禅宗等の宗派が隆盛を向かえます。そこでは礼拝の対象としての仏像は顧みられなくなります。そうなれば仏師は必要とされません。
 南北朝以降仏師が育たなかったのは,仏様の需要が極端に減少したからです。


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