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米沢市立上杉博物館

名称 米沢市立上杉博物館
所在地 山形県米沢市丸の内
起点駅・目安時間 東京駅・2時間30分
経路 山形新幹線米沢駅下車・徒歩15分
国宝建造物 なし 
国宝仏 なし
その他の国宝 1 洛中洛外図
公開 常設展示(レプリカ)
お薦め度 ★★★

米沢市立上杉博物館のこと

 上杉家の家宝を中心に日本の古美術を展示する博物館。平成13年に新博物館としてオープン。

洛中洛外図

 「上杉本洛中洛外図屏風」と呼ばれる狩野永徳の筆になると伝えられる六曲屏風一双(一隻)。
 この屏風は,室町時代末期の京の町の景観や庶民の暮らしぶりを繊細な筆致で描いている。その描かれた人物数は2千数百名にも 及び,当時の生活,風俗を知るうえで貴重な歴史資料となっている。
 これまでの伝承によれば、雪の降りしきる中,信長がはるばる越後春日山城(現新潟県上越市)までこの屏風を運ばせたのは1574年の事である。

 この頃の信長は,足利義昭の追放に端を発する反信長包囲網の一斉蜂起に神経をとぎらせており,信長にとって謙信との間の友好関係を継続,強固なものにすることが今後の戦略にとって絶対条件であった。そしてこの屏風を運び込むことにより同盟関係は暫くの間維持されることになる。
 当時の永徳は,超売れっ子であり,いかに謙信が望んだとしても,はるばる越後まで永徳を呼び寄せ屏風絵を描かせることは到底不可能であり、その意味で謙信にとってすこぶる貴重な一品であったことは間違いない。
 
 なお,洛中洛外図と称される屏風絵等は,現在80点ほど残されているが,その中で本品は,唯一の国宝である。
 まsた最近では,故平山郁夫氏が「平成洛中洛外図」と名付けた大作を発表している。

天才画家永徳4歳の作品?永徳真筆論争

 しかし、である。
 この上杉本(うえすぎぼん)と呼ばれる洛中洛外図が国宝の指定を受けたのは平成7年と,比較的最近のことである。この指定が遅れたことの原因の一つに,永徳真筆論争があった、と推測される。
 これまで、様々な文献や印、画風等から永徳作,とするのが適切と考えられてはいたが,国宝指定後も,果たして永徳の筆になるか、については、なお,大いに争われているのである。 

ハッキリしていること

 美術史家は他の永徳の作品との類似性から永徳の真筆であるとするが,疑問が多い。 実は、この屏風については、@室町時代後期を描いていること、A上杉家が所有していたこと、の2点ほどしか確実なこととされていないのである。
 誰が、誰の求めに応じて、どのような制作意図に基づいて描いたか等は、全くの謎であり、信長が謙信に贈答するために永徳に描かせたというのは、ほとんど推測の域をでないのが実情である。

一石を投じた今谷説

 描かれた建物,風俗等からその製作年代を精緻に割り出したのは今谷明である。この今谷説に、中世史、建築学、美術史学の各学会は驚愕する。
 今谷の研究成果は、描かれた全ての建物が実在したのは1547年のわずか2週間程度であるとする。その結果、その頃永徳は,まだ4歳であり、永徳が信長の求めに応じて描いたとする、通説的見解は成立し得ない、と結論づける。
 もっともこれは洛中洛外図等の景観図が絵師が現に観察している情景を描写する「写実」を基調としていることを前提とする議論である。しかし、景観図は、依頼主の一定の意図のもと、たとえば、懐かしき過去の京の景観を求められ描くことも十分考えられる。そうであれば、20年後に当時の別の者が描いたデッサンをもとに永徳が描くことも十分考えられるのである。
 しかし、である。
 これでは十分説明できないことが次々に明らかになりはじめる。

通説への疑問点

 信長が描かせたとすると、どのような意図であったのか。その頃の京は、信長自ら火を放ち灰燼に帰した後であった。復興後の煌びやかな景観であればともかく、みずから焼き落としたかつての京の町を再現することなど考えられない。
 そこで様々な説が唱えられる。描かれた年代は、やはり1547頃、描いたのは永徳以外の絵師、依頼したのは足利義輝、といった具合である。

あなたのライフワークにいかが

 この真筆論争をまとめた読み物に黒田日出男「謎解き 洛中洛外図」(岩波新書435)がある。最新に近い、研究成果がまとめられていて、百家争鳴の感がある様々な説が、いずれも推論に過ぎないことが示されている。
 いずれにしてもこの屏風絵、制作年代は、比較的新しいにも関わらず、作者等に関する決定的な証拠がないのである。
 しかも、これを扱う資料は、近時カラー版の写真図録が数多く発売されていることから、各学者の持つ資料の95%は簡単に手に入れることができる。その意味では素人でも対等に近い武器を手に、歴史、美術、建築等の学者に論争を挑むことも十分に可能な分野である。数独なんかやってる場合ではないのである。
 他には、参考文献として瀬田勝哉「増補洛中洛外の群像」(平凡社ライブラリー)をあげておく。そこには、今谷説を鋭く批判した「公方の構想」も収録されている。

現在の論点

 現在の論点を大雑把にまとめると次のようになる。すなわち、
 @絵師は誰か。永徳か、永徳に近い者か、それ以外の第三者か?
 Aそのころ絵師はパトロンなしでは、生活が成り立たない状況であった。そこで、この絵に多額の祝儀をはずむことができる依頼主は誰か。信長か、義輝かあるいは、第三の人物か?
 Bどのような動機で描かせたのか。自家用か贈答用か。
 より根本的な問題として、Cいつ頃の洛中を描いたのか。それは特定の時点か、ある程度の幅のある期間における京の町を描いたものか。
 さらに、D依頼主の注文意図に深く関係するが、実景、写実なのか、それとも依頼主の懐古的感情が入って過去の情景、あるいは理想の町並みも入っているのか? 等である。

恐らく?

 これらの論点を組み合わせ、合理性を判断基準として強く求めると、以下のような推論が成り立つと思われる。すなわち、
 義輝が謙信に贈答するために、当時まだ華やかだった京の町を写実的に、当然誇張を交えて永徳に描かせた。永徳はその依頼により、当時、景観図の依頼が多かったことから、それまでためておいたデッサン画も引出して、それをもとに過去の洛中を描いた。
 やがて屏風は完成するが、その頃、依頼主は過去の人となっていた。京の都に戦火がおさまり平穏になり始めた頃、信長が屏風の存在を知る。制作経緯を知った信長は、同盟関係強固を目論んでいた謙信に贈った、のではなかろうか?

ウォーリーを探せ、永徳を捜せ

 推論を高める他に楽しみは、実はもう一つある。かつて、映画監督ヒッチコックは、自らのほとんどの作品チョイ役で出演していた。2500人もの人々が描かれているこの屏風の中に、永徳がいるのではないか。間違いなくいる。絵師は描かれていないか、門人を集めて絵の指導している永徳はいないか、あるいは妾宅に向かう永楽かもしれない。
 例えば、闘鶏に興ずる人々が描かれている場面がある。その中央に少年が佇立して興味深げに眺めている。それが、この屏風を依頼した義輝である、とする説もあるほほどだ。カラー版写真図録を手に入れるしかない。この国宝はあなどれない。

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