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福岡市博物館

名称 福岡市博物館
所在地 福岡市早良区百道浜
起点駅・目安時間 新幹線博多駅・30分
経路 地下鉄西神駅下車・徒歩15分 
国宝建造物 なし 
国宝仏 なし
その他の国宝 3 金印・太刀等 
公開情報 金印は常設展示。太刀の展示は不定期。
お薦め度 ★★

福岡市博物館のこと

 博多湾の近くに建つ近代的な博物館。あの金印が常設展示されている。
 近くには福岡タワー,ヤフードームなどがある。

金印

 印判部分は,約2.3センチ四方,厚さ5ミリほど,まるでチョコレートの一切れサイズほどの極めて小さいもの。
 その上部に蛇を形取った紐(ちゅう)と呼ばれるつまみがついている。
 江戸時代に博多湾に浮かぶ志賀島の農民甚兵衛が発見したと伝えられ,印面には漢委奴国王(かんのわのなこくおう)と刻印がある。
 ちなみに館内常設展示場に展示されている金印は,ホンモノとのこと。 

真贋論争

 この金印,お百姓さんが農作業中に発見したというシュチュエーションは物語としてはできすぎの感があり,また,その発見場所というのも志賀島とう言われているもののハッキリしない。この辺りと言われるその近辺を見渡してみても祭祀,霊場とは無縁の地域であり,そんなこんなで贋作説が後を絶たなかった。
 なるほど,どこかの神社の神棚からあるいは,寺の本尊の胎内からそれが出現したというなら,何となく理解できるが,歴史の舞台とは無縁の何の変哲もない島の崖っぷちあたりから出てきたと言われてもにわかに信じ難いと言うのはもっともな話。
 そこへもってきて,発見後間もなく鑑定を依頼された田舎の儒学者が,瞬く間に「後漢書東夷伝」を引き、朝貢してきた倭国の使節に対し西暦57年「光武,賜うに印をもってす」の金印だ、と喝破してしまった。しかも全国にその情報を発信したものだから,江戸や大坂の学者はカチンときたのであろう。そのあたりは昔も今も変わらない。 というより当時の学問環境はコンピューターとコピー機が無いぐらいで,意識も能力も今とさして変わりがないと言えるであろう。学問に対する熱意に至っては劣悪な環境を考えると現在よりも高いかも知れない。
 しかし,この真贋論争は,そんな感情的なものばかりでなく,客観的に見ても確かに不自然な点は多くある。 

ここが変だよ

 それを要約すると,
発見場所がいかにも不自然,歴史的に重要な場所ではない
大石の下から出てきた割には金印は,きわめて保存状態がよい
つまみ部分の作りが稚拙であり国の威信をかけた風ではない、等である。
 また,鑑定者亀井南冥にまつわる疑惑としては,農夫甚平から南冥にいわば直線的に金印が届けられている。その亀井南冥には篆刻家の友人が多い、発見から鑑定,さらに書面による全国発信等の日時に食い違いが認められる,さらに、あまりに早い対応ぶりからすると事前に周到な用意がなされていたのではないか、 仮に本物としても発見されたのはもっと以前ではないか、 亀井南冥の黒田藩内における学者としての主導権争いに贋作を持ち出したのではないか、等の状況疑惑がたくさんあるというものである。

考えられるケース

 そこで,亀井南冥を中心にして,金印の真贋につき場合分けをすると以下のようになる。
 まず,第一にそもそも後漢書の記述通り光武帝から倭国の使節が金印を賜ったかどうかである。しかし、この点は、賜ったと考えるのが自然である。国史にわざわざ嘘を書く必要もないし,同じ光武帝がその子に賜った旨の記述もある「廣陵王璽」と刻印された金印が中国において出土している。しかも志賀島の金印と大きさ,文字の書体等が酷似する。そのように考えると,鋳潰して小判などにしない限り光武帝が倭の使節に賜ったという印はこの地球上に存在すると考えてよい。
 次に,それが日本にたどり着いたか,である。
 到着したとして次のパターンが考えられる。

1 着いた。それが志賀島から発見され現在福岡市立博物館のケースに入っている。随所に不自然な点はあるが、おおむね史実通りに展開されてきたケース。
 バリエーションとしては、発見日とされた日より少し前に南冥の手に入る。たとえば沖の島からの盗掘品が南冥に持ち込まれるが、それを志賀島から発見されたことにする,といった程度の作為が施されたが発見自体は真実というもの。

2ーア 着いた。その際,重要なものだから疵付けないようにと,当時,模刻品を作り,日常はその模刻品を使用していた。その模刻品が志賀島から見つかった。本物は沖の島か,北九州のどこかの墳墓,遺跡にある、というもの。しかし,これは可能性としては極めて低いであろう。西暦57年当時,日本(倭国)において,材料としての金と金細工の技術があったとは思われない。
 
2−イ なお,これに類似のケースとして,史実どおり志賀島で発見されたが,その金印の模刻品が発見された頃作られ,その模刻品の陰影等が亀井南冥の鑑定書等に捺され,いつの間にかそれが本物と考えられて,現在福岡市立博物館のショーケース内に展示されている。本物は,例えば黒田家の蔵に収められその存在が忘れ去られている状態。
 このアとイは模刻の対象となる本物が存在した点でいわゆる贋作とは異なる。

3 着いた。しかし,日本で行方不明になる。西暦57年頃、政変、あるいは戦等で金印の所在が不明になる。昔のことだから伝承もない。今でも北九州のどこかに埋もれている。そこで例えば,江戸時代に後漢書の記述をヒントに贋作作りを思いついた者がいた。金印は、全くの偽物。それを亀井南冥に売りつける、もしくは亀井南冥が作る。贋作であるケースの基本的な形態。

4 日本には到着していない。使節が帰途に日本海に落とした、ゆえに日本の文献伝承には全く現れない。
 そこで例えば,江戸時代に後漢書の記述から贋作作りを思いつく。それを、亀井南冥に売りつける、もしくは亀井南冥が作る。
 この3と4は結局同じであろう。
 となると結局は,あくまで本物であるか,あるいは,模刻品か,さらには江戸期に世間を騒がせる意図の元に作られた全くの贋物か,そのいずれかということになる。

ゼロから作れるの

 ここで素人的に考えると模刻はともかく,贋作はなかなか難しいのではないか。あれだけの本物らしいものをゼロから作り出すのは,との疑問が沸く。しかし,当時すでに後漢書東夷伝の当該箇所の存在は十分周知されていたし,藩校によっては教材として用いていたようである。また、中国の古代からの国印等の印影を掲載しその印の形状等を解説した「集古印譜」等の書物も広く出回っていたことは知られている。そうであるなら,印字や刻印方法、大きさや字体等についてはかなり正確に基礎知識ができあがっていたようである。
 そうだとすると,あの程度の金印を作るのは当時であれば技術的にも財源的にも造作のないことであったと思われ,世間を騒がせたい,との気持ちを抱く輩が出てもなんら不思議なことはない状況であった。
 贋作説は,そのような可能性にを前提に,発見にまつわる様々な不自然な点に注目した立場である。

ところが世紀の大発見

 しかし,最近になって状況が一変した。
 あまりにも大きさや字体が酷似した金印が中国で発見されてからである。それがすでに述べた「廣陵王璽」印である。この金印は、同じ鋳型を用いたと言えるぐらい一致しているのだ。
 それ以前は,真贋両陣営とも基準たるべき本物が無い状況でお互いけちを付けていたにすぎない。けちを付ける方も付けられる方も基準品が無いから,言いっぱなしが可能であった。いわば水掛け論であり,どちらも自説の正当性、相手の不当性につき共に根拠は薄弱であった。しかし,この兄弟印が出土して以後,贋作説は陰を潜めることになる。
 しかし,その後でも贋作説は,少数ではあるものの囁かれている。
 贋作説は,「集古印譜」からあの程度のものを作ることは容易であるとの基本的な認識で一致している。集古印譜にはそれらしい刻印が沢山掲載されていて字体等を模倣することは当然のこと大きさも寸分違わぬまで近づけることも可能であるとするのである。また,漢の時代の銅印なら日本に来ていた可能性があり全体の形状や雰囲気を把握することもさして難しくはないとするのである。

酷似している以外でも

 しかし,である。印影から同じ大きさの印鑑を作ることは可能であろうか。機械による計測でも二つの印は寸分違わぬと言えるまでの近似値である。まるで同一の鋳型を用いたと考えられるほどである。写真で比較してみても,高さや,上に行くに従って僅かに窄んでいるようでもあるし,紐を通す穴の形体さらにはつまみ部分の滑り止めとも考えられる,小さな丸い斑点模様等まで酷似している。
 また,外観のみならず「委」の字や「奴」の字が用いられている点からみても贋作ではないと思われる。
 後漢書の記事から贋作を思い立つ者は,倭国の国印として「漢倭国王」,「漢之倭国王」等と印刻するからである。また,倭国の連合国の一つを二文字で表現しようと考えた場合には,委の字はともかく奴の字は用いないであろう。この印が発見された当時でも,委奴を「いと」と読む説はあり,伊都国,伊覩国,怡土国の事であるとするから,伊都国王,伊覩国王,怡土国王のいづれかの字を用いるだろうと考えられる。
 なお,現在では,委奴を「いと」と読み伊都国,伊覩国,怡土国等のことであるとの立場も多いが,それは本物であることが前提となっていて,何とかして国名に当てはめているからであり,贋作者があえて物議を引き起こすべく,(本物らしくみせるために)そのような難解な表記を選択したとは考えられない。
 また,つまみの稚拙さからも贋作ではない。江戸期の贋作なら,蛇だか蝮だかわからないようなものは作らないはずである。 

素人的にも本物である

 このように見てくると,やはり本物と考えられる。
 もし違うとしても,基本的には史実通り。発見場所やその日時等付随事情に誇張,虚飾が入っている程度と考えられる。
 成分分析でも中国産出の金その他の鉱物の含有率であった。
 しかし,万が一,より高度な精密検査で兄弟金印ではないとの結果が出たとしても,それは贋物ではなく,例えば,江戸期に発見された素材は中国から輸入された金を用いた金印の模刻品であり,いつのまにか本物はその存在を忘れ去られて黒田家の蔵の奥に置かれているとの上記2−イのケースと考えられる。

七つの金印

 この金印の真贋論争をあつかった推理小説に明石散人「七つの金印」(講談社文庫)がある。史実と資料に忠実に,しかも論理的に話は展開していく。金印の状況整理には格好の読み物となっている。
 また,贋作説の立場から書かれている新書本に三浦佑之「金印偽造事件」(冬幻舎新書)がある。
 基本的には推測の上に状況証拠を積み重ねているだけであり合理性に乏しい展開となっている。また,金印のグラビア写真はあるものの兄弟金印については,白黒写真すらないのが,本書をしてすこぶる軽いものにしているのは、冬幻舎の新書にしては手を抜いていて残念である。専門的な研究書からはほど遠く読み応えは乏しい。
 ただ,最後の贋作説になる可能性があり,現在における最新の資料や見解が集められていることから金印をめぐる状況を整理するには都合がよい本である。

 なお,同じように「魏志倭人伝」には、卑弥呼に金印を授けたとの記述がある。こちらの金印が見つかれば邪馬台国論争にも終止符が打たれるのだが。

その他の工芸品2件

太刀

 名物日光一文字と呼ばれる太刀。

 長谷部国重作,「へし切長谷部」との異名を持つ刀。
 この異名「へし切長谷部」は,信長が無礼な茶坊主をへし切りにしたことからつけられた。へし切られるほどの無礼とは実際,いかほどのものだったのか。あの病的な性格からして,つまらんことでへし切られたであろうことは容易に想像できる。ひょんなことから名を残すことにはなったが、茶坊主が哀れである。

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